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檜山バターン(@hiyanimation)のブログです。note(https://note.com/batahiya)では別の記事を載せていてそっちの方がちゃんとしてます。このはてなブログは知人に読まれることを想定していることが多いです。

優生学とかってさ…

誤記修正:最初りぼんについてちゃおと間違えてました。(修正済)

 

 優生学とか命の選別とかがにわかにブームですね。

 自分にはどうにもできないパンデミックのなかで自分がマスの中の一個体でしかない、という感覚が発生して、そういう発想になる人が多いのかな。憶測ですが無関係ではないんじゃないか。

 

 まずはれいわ新撰組の大西つねき候補が「長生きする高齢者」について「命の選別が政治家の役目」とか言ったこと。それに対し少なくない支持者が擁護したこと。

 そしてALS患者にたいする嘱託殺人。次いで維新などの政治家がこの件にかこつけて尊厳死をーなどと言ったこと。

 さらにRADWINPSの野田洋次郎氏がすごい若者には国がしかるべき配偶者をあてがえみたいなことをツイートしたこと。それを数多の人が優生学だと批判したこと。それに対して「冗談ですよ」などとどうしようも無い逃げ方をしたこと。

 

 あとちょっとずれるけど「りぼん」の付録がゼクシィとのコラボでの「なんちゃって婚姻届」で、批判を招いたことも近い現象な気がするがこれは後述。

 

 ※これから最初に挙げた三つの事例をなさしめた優生思想という考えについて言及する。個別事例によっては該当しないこともあるかもしれないがその思想の先にあることは同じだと思う。

 私はこの手の優生思想は本当に嫌いで憎悪している。優生学が反倫理的であることも、実際のところ非科学的な妄想である(人類のために役立たない)という事実も理由ではあるが、私個人が嫌なのは別なところな気がする。

 まず優生学とか命の選別とかってのは殺意の一種である。「〇〇な奴は死ねばいいのに」という感覚である。いや、死ねと言ってるわけじゃないんです、不要な存在は将来に子種を残すなとか早めに死んでくれと言っているだけです、という向きもあるが、人間の生きる上での行動を縛ろうとする時点で本質的に大差ないし、社会による生の制限は必ず死と結びつく。

 しかし殺意が許せないというわけではない。私も殺意をもって生きている。世の中は不愉快な人間であふれているとも思うし、漠然と人間は多すぎると思っていつも生きていて、そのなみなみならぬ死の欲望は世人の追随を許さないくらいだと思っている。

 だからパンピー面した人々もみんな客体を持たない殺意のはけ口を求めているんだな〜と思って、ほんのかすかにシンパシーというか、近さも感じるんですよね。俺は地味な口減らしの要領で社会に強制される死や生の制限なんかにははなから賛同できないし、実際に弱者がいくらか死んだところで俺の人類への怨みは消えないが。

 さて、その殺意を優生思想という名のナニカに包んで語る当人には、恐ろしいことにその自覚が無いらしい。

 だから「老人は社会のゴミ」みたいな発言を繰り返していた人間による嘱託殺人を美談化したり、放言した優生思想を「冗談」で済ませられるのだろう。

 なんでそんなことが可能かというと、選別の過程で自分が切り捨てられる側になるということを想像できないからなようだ。

 その傲慢さが許せないし、これだから大衆は世界の何よりも恐ろしい悪なんだと思う。殺意じゃないフリして殺意をばら撒くなんて外道の極みだ。もちろんわかりやすく殺意をふりまけばいいってことではないですよ。

 そもそも誰かの生きる権利を潰してまでも生きるべき人間などいるのか?俺はいないと思う。せっかく作った天賦人権という概念を、社会という名の多数派の快楽のために捨てるような生物なら、人類まとめてさっさと滅んだ方が良い。その方がきっと地球環境の多様化にも貢献できて良い。

 人間社会は生きるにはあまりにも苦しいので死にたくなるのも死んでほしくなるのも自然な感情だと思う。だがそれは自然ゆえにどうしようもない感情なのだ。なんとか他者の気持ちや生存を想像して、やっていくしかないんじゃないか。(想像力以外に頼れるものがあったら教えてほしい。マジで)

 それを無理矢理都合よく解釈しようとしたりするから平然と優生思想とかに流れるんだろう。深淵を安全なポジションから覗こうとして、よりヤバい深淵に覗かれちゃってるんだ。やっぱズルはよくないね。

 そういえば最初に書いた通り優生学というのは実際公益も無いらしい。ホロコーストやら人種差別制度なんかの研究でかなり明確になっているそうで、それでも復活するってことはやはり人間の潜めた殺意が巻き起こすんだなと思う。

 

 そして優生思想を成り立たせるもう一つの原因は「あるべき人間像」という幻想だろう。人間のあり様には良し悪しがあるという幻想。病人や障害者は悪。配偶者を持てない(自由意思でもたないのかなど知らない)人間は悪。同性愛者も悪、だったけど今は特殊ポジション扱いかも。無職は悪。貧困も悪…などなど。

 根底にこういう価値観があるから優生思想や命の選別が成り立つのだ。野田洋次郎さん的には天才野球選手と天才子役と天才スケーターがその価値観の中で最も良とされるわけですね。ははは……(ここが一番やばくないか?!)

 古代世界では病気は罪の証、あるいは前世の罪と考えられたが、現代も個々人の倫理だとそう変わらないようだ。

 自己、他者を見る上で各々の価値観があるのは当然だが、それを一般に適用できる絶対なものとする傲慢な思考が最悪な思想を生む。

 さてそこで最初に書いた「りぼん」の話が出てくる。女子小学生にとって支配的メディアである雑誌がキラキラした嘘婚姻届を付録としてつけることは一つの価値観を絶対のものと錯覚させるということで、その批判に私も同意する。

 

 二つのポイントから結論的なものを導くと、優生思想とかにハマるのは自分の価値観を自分の中に築けなかった人間ということになる。

 ちゃんと自分の価値観を持てなかった人間は自分と他者の価値観の境界が曖昧で、「社会における要不要」と「自分の中の負の感情」を溶接してしまう。そして価値観が無いということは自分という存在を確立できていないことでもあるから、選別される命に自分は入らないと無自覚に思ってしまう。それで優生思想という狂った言説に疑問を持たなくなる。そういうメカニズムじゃなかろうか。

 そうならないためには別に変な価値観を持つ必要はなく、ただ自分の見て考えることと他者の違いに敏感になればいいだけだろう。要は想像力の欠如が問題ってことです。

 

 

 などと語ったところで俺も誰も彼も「死ね」って気持ちを抱えて生きている点で等しく最悪でどうしようもない存在で、それがいつ暴走するかわかんねえから、ふりかざす側としても全く他人事じゃないし、俺のごとき高卒無職左翼の性倒錯者にはいつ「生きる資格無し」の烙印が飛んでくるかわからんから本当に怖いものである。

 

 最後に、私の「殺意」を自分なりにネタにして描いた漫画があります。今だったらここまであからさまに描かないと思うので閲覧注意だしいろいろクソなのですが、みんな死ねばいいのにという気持ちのときに俺はこういうスタンスでやってます、という例として貼るべきな気がした。

https://twitter.com/hiyanimation/status/1144170309353738241?s=21

 

 ちなみに最後から2つめのコマにうつっているのは国会議員バッジで(絵が下手)、つまりそれまで権力者の代わりに弱者を殺させていた人間こそ真の権力者だったというオチです。

ぷにケット41(プリジャン29)の感想

 プリジャン行きました!楽しかったです!

 

 プリジャンは、ぷにケットというほぼジャンル問わない系二次創作イベントのなかのプリティーシリーズに関するところがイベント内イベントとしてある形の即売会です(今までもずっとそうだったのかは不明)。初参加だったんですが、参加者3人、売り子1人という大所帯で参戦しました。

 今回はコロナ禍のなかでのイベントということで、一般参加者は一時間ずつの交代制、そもそも参加者全体がいつもより圧倒的に少ないらしい、とイレギュラーづくめでした。

 そして自分たちはサークル人員が4人、つかえるサクチケ(入退場自由のサークル専用チケット)は2枚ということで、二人がカタログ入場だったのですが、その2人分は入れ替え制での入退場を余儀なくされるということになってしまいました。

 その点は当日まで知らされなかったので大変で、ちょっと憤りがあります。まあ4人サークル人員がいることは珍しいことなので、我々が最もあおりを食っただけなのだろうとは思いますが、事前にちゃんと告知しておいてほしかった……。

 

 サークル参加者はカタログ上は130くらいでしたが、じっさいに来たのは90くらいだと思います。ぷにケットはいつも500前後参加する個人運営イベントとしては最大規模のものらしいので、いつもより相当少ない様子でした。それに比しては一般参加者はだいぶ多く、よく売れました。

 

 さてそのあとの流れをざっくり説明。

 サークル責任者である俺と売り子をやってくれるtnhrくんだけ事前につき、一般参加時刻にもう二人の描き手である、ぴぴるぴ氏とモミョララチチャンタン氏が到着……したのですが、先述の入れ替え制問題により一時間後の入場になってしまいます。人はそのままに袋に入った同人誌だけ受け渡すという、なんか禁制品の密輸のようなことをして、開会の11時を過ぎたころにはなんとか設営完了しました。

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 tnhrはそもそも売り子というよりはあそびにきた友達、って感じでサクチケ入場も当日決まったのですが、結果的にかなりいろいろとやってもらって本当に助かりました。

 

 とまあいろいろな仕様変更にとまどいはしましたが、入れ替え制の同人イベントはなかなか面白い特徴がありました。

 いつも同人イベントでは開会してから1時間がいちばん売れます。コミケほど大規だとちょっと別ですが、このような小~中規模なイベントでは十中八九そうでしょう。一時間超えても残っている本は不良債権のように残り続けて結局終了までほとんど売れない……というなんともいえない経験は多くの同人作家がしているのではないでしょうか。

 しかし今回は入れ替え制であることでそのようなスタートダッシュ時間が一時間ごとに発生しました。今回は10分あれば全部見て回れるほどのスペース数だったので、入れ替えてから10分くらいがそういうかきいれ時って感じでした。

 11時、12時10分、13時20分と回を重ねていって、友人二人の本は完売、自分は1部を残すのみとなったので14時30分の入れ替えを待たずに撤収。まさかこんなに売れるとは思ってもみなかったのでうれしかったです。

 あと、こんな大変ななかでもちゃんと開催したぷにケット運営の方々には本当に感謝します。

 

 買い手としてはファミリアさんというかたの作品がすさまじい魅力をはなっていました。

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 オリキャラと多数の版権キャラが大量に出てくるのが特徴で、いわば小学生のときの自由帳の落書きにしかなかった自由さというものが充満した、本当に魅力的な同人誌です。

 しかし、このファミリア氏の多数の同人誌が、氏の構想する世界を舞台にした連続、相関する物語になっている点において、子供の想像とは圧倒的な作り手としてのパワーがあります。子供の自由さと大人の熱意が合わさり最強ってことだ!

 つねづね日本におけるアウトサイダーアートの発表の場は同人イベントだと思うのですが、今回のファミリア氏の作品はそんな風に構えている俺の度肝すらぶち抜く圧倒的なすごみがありました。

 終わってから、tnhrと13時からきた友達のかくまい君とサイゼリヤに行ったのですが、ファミリア作品について数時間語り合いました。(上掲の画像のうちの二冊は二人がそれぞれ買ったもの)。

 

 そのあと3人で原宿のプリズムストーンカフェ原宿に行き、二次創作で得た収益を公式に奉納しました。

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レオナの股間の前に立つ俺

 カフェにはめが兄ぃがいたりなかなか楽しかったのですが、店内でプリパラを流しているモニターがフレーム補間するタイプでヤバかったです。公式のコラボカフェが原作者に敬意を持っていない、というのは作品作りを人生の主柱とするもののはしくれとしては憤慨すべきことなのですが、60fpsでぬるぬるとキモイ動きをするペッパーは三人でげらげら笑いました。

 

 今回つくった俺の本は、再販はないですが、どっかのタイミングで公開すると思いますし、すぐに読みたければDMなりしてください。

 最後にファミリア氏のpixivとホームページを貼っておきます。でも真のすごさはネット公開分にはないかな、と思います。もし同人イベントで見かけたら買ってください!

https://www.pixiv.net/users/2690981

http://saifrasbl.blog.fc2.com/

 

都知事選の感想

 全てが淡々とした行事のように終わってしまった。

 


 コロナとオリンピックだけでもどう見ても常にメディアで論戦が繰り広げられるべきレベルだったが実情はそうでなかった。

 忘れられがちだが豊洲問題は結局どう収拾されたのかも取り上げられるべきだった。

 候補者有権者が万全の状態で取り組むべきレベルの選挙だったはずだ。(理想論としては全ての選挙がそうだったが、とりわけ重要だったということだ。

 それなのにテレビでは候補者同士の討論会が一度も行われず、これまでの都政に対する切り込んだ言及も行われなかった。(まあ俺はテレビほとんど見ないので詳しくは知らないのだが)

 誰が勝った負けた以前の問題が多すぎる。

はじまってもいないのに終わったような感覚がある。

 


 利権のための茶番で民主主義を腐らせた人々を倒さない限り、この国はどうしようもない。そんなことはわかっていたが、そういう国家全体の空気とは別で動きやすい地方首長選挙でさえそうなったことに絶望感がある。

 前回の知事選および都議会選で、小池百合子都民ファーストの会なる烏合の衆を立ち上げて自民党とは別の存在であるとアピールして大勝したことも茶番だったが、そういう広告が効果的なくらいには独立性があったのだと思う。小池百合子というキーワードのもと、この4年で民主政治はさらに衰退したのだ。

 

小池百合子についての感想

 はっきり言うが、小池百合子にはなんの成果もない。豊洲移転に関する問題を政治ショーのためにさらに混乱させたことと、関東大震災で起きた虐殺への弔文を送らなくなったことが数少ない「成果」だろう。

 コロナ対策はほとんど最悪の対応だろう。世界でパンデミックが起こってもオリンピックのためになんの対策も要らないとしていたが、オリンピック延期が決まった瞬間に自分の見せかけのリーダーシップアピールのためにキツい自粛を強要した。与えられる補償は国と同様に雀の涙で、たくさんの飲食店や文化施設がこの間に潰れた。

自粛終了から現在までの期間は、感染者は如実に増えている。そもそもちゃんとした検査を安倍政権も東京都も指示していないから実態はよくわからないが、小池百合子が演出した「自分の指示した自粛によってコロナは抑えられた」というストーリーは完全な虚妄だった。しかしその失政を隠すためそれ以降は大枠の対策をとらなくなった。東京アラートなる造語を作ったものの、なにもなされないまま、7月はじめには基準自体を変えてしまうという体たらくであった。

 これらの点を踏まえて到底信任できないと判断した。よく政治について(特に与党を擁護する人によって)他よりマシかどうか、という観点が語られるが、そういう統合的判断で動くことは主権者の振る舞いとしては相当最後の方に来ることである。というのも、主権者による自分本位な投票行動の揺乱こそ政治を中庸に制御するキーなので、ダメなところが目についただけでとりあえず変えるくらいの方が原則としては正しかろう。

というかこれより悪くなる都政が想像つかないぞ。

 

 


選挙戦の感想

 野党統一候補として宇都宮けんじ氏が擁立されたところに、山本太郎が参加しだしたことが色々リベラルの人々の中で話題になった。

 俺もさいしょは嫌な感覚にはなったのだが、それはは後述。

 実際のところそういうことを有権者が議論するのは詮ないことだろう。被選挙権は誰にでもあるのが当然であるし、「票割れ」みたいなことを圧力かけてどうこうしようとするのは傲慢だろう。

 色々な意見が出たところで宇都宮けんじ氏が「選挙に出ることも市民運動だ」と言って山本批判をぶった切った。

 市民による政治の参画にハードルがあることを批判し続けてきた宇都宮氏がそう言ったことに、誠実さを感じたし、そうはっきり言われたことで山本太郎のねらいも明確に分かった。

 山本太郎は選挙における投票行動が様式化されることを変える、という一心で出馬したのだろう。

 ここ8年ほどの自民党の天下は投票率の低さと自民党が持つ日本中の全国にある自民党地方組織と創価学会の組織票、これによって支えられていると言っていい。

 それは前回の衆院選で、与党に票を入れたのは国民の25%であるという端的なデータから「どんなときにも現職に入れたがる無党派層」という行動様式をさっぴいて考えればわかる。

 

 繰り返しになるが、この国の趨勢を決めているのは組織票である。

 

 組織票を超える無党派層、政治に馴染みが無い層をある程度でも取り組めば2009年のように圧勝できるし、取り込めなければ負け続ける、そういうシステムになってしまっている。

 だから山本太郎は与党対野党統一候補というお決まりの構図に水を差して波乱を起こそうとしたのだろう。野党統一候補策定プロセスの不透明さとか、自党が野党共闘にそこまで立ち入れないことへの反発とかもないわけでは無いと思う。

 


 それはわかる。だがそれはどう頑張ったところで野党側が勝てない、と踏んだからそういう行動に出たことが俺にとっては悲しかった。

 山本太郎は野党(宇都宮氏)が勝てる確率が1%でもある戦いだったら出なかっただろう。

 ほんとに1パーセントもなかったのかと思いたくもなるが、事前の世論調査、結果としての得票数、諸々の統計すべてが告示時点での覆しようのない敗北を裏付けているので、これはやはり間違いない。

 俺は敗北主義で戦わざるをえない状態が大嫌いなのだ。おそらく「リベラルの人々」もそうなのだろう。負けが分かっていながら戦い続けることに厭気がさしている。

 だからといって覆しようのない敗勢を「与党対野党」として粉飾して勝てる気になるのは愚の骨頂でしかない。

 結論として、山本太郎の敗北主義は未来に希望をつなぐ、良い行動だったのだと思う。

 

 

 

 次に勝つために

 このままいけば無理矢理延期されたオリンピックは大変な混乱を呼ぶだろう。ネット討論会で山本太郎が指摘した通り、延期開催に関する予算編成すらちゃんと組まれていないし、会場に関する精緻な設計が行われるとは思えない。

そもそも予定通りの開催すら、ボランティア不足など色々危ぶまれていたのに延期したらもっと大変だろう。パソナにさらに委託する未来が見える見える……。

 もっと大枠でいうと、結局中止になったり、コロナの再蔓延が起こったりするかもしれないし、延期開催費用に関する汚職・会場使用に関する揉め事なども起こるだろう。そしてあまり考えたくはないがこんな状態ではテロの危険度、成功率も跳ね上がっているだろう。

 そうした間違いなく起こる重要な失策を国政選挙、および2024年の都知事選までにどう覚えてもらうかが重要だ。はっきり言って一年経ったら忘れる、それがこの国の主権者だ。

 だから政治家、政治に興味がある有権者は関心を持ち続けてもらうために行動をし続けていかねばならない。


 ……のだがTwitterはそういうツールとしてはだいぶ微妙な気がする。市井の人の政治ツイートに反応してくれるのは最初から政治に興味ある人だけじゃね?

 そもそも反応があったところで議論には使えないし……Twitterで発信することにはだいぶ違和感を覚えます。

 KuTooとかは成功したけど、あのくらい生活に密着していて、党派性がない(ように見える)運動でないとダメなのではないか。

 

 検事総長定年引き上げ法改悪の阻止にも成功しただろ!と思われるだろうが、あれは芸能人有名人によるツイートと、コロナでみんな仕事していなかったという状態の重なりによって起きた事象であると思う。良いことではあったしこれで政治に関心を持つ人も増えたかもしれないが、そういうことがこれからも起きると思うのは希望的観測にすぎる。


 Twitterみたいな何も信用のおけないネット世界では、もっと基礎レベルの啓蒙に努めるべきだと俺は思う。

 選挙を勝つ人にいれる競馬みたいなものだと思っている人間や、自分が投票、応援した政党は全て擁護しないといけないと思っている人間(ネット右翼に多い)が多く見られる。

 民主主義の基礎が根付かないと投票行動にも結びつかないしまっとうな議論も呼べない。

 暗中模索がずっと続くが、とりあえずそういうことの徹底が重要かもしれない……。

 

追記:桜井誠についても色々書きたい気持ちになったがこの古谷経衡の記事を読んでもうちょっと色々見てから判断すべきだと思ったので今は書かない。とはいえ切迫した問題でもあるので難しい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20200706-00186751/

日記

 世界への絶望がわたしの体内に広がっている。大きなところでは差別問題から日本の国政の腐敗、近いところでは親から私への支配的な要求。世界はきゅうくつで、だれの目にもかすんで見えない。

 なにか目に見える強さがほしいという願望が湧き出た。これは昔の人々が絶望のなかで神の救いを希求したのとまったくおなじ願望である。あるいは俺TUEEE小説を読む中二病のオタク。だからこれは単なる現実逃避であり、満たされることのない空虚な欲求だ。

 ただ、そうした到達しえない欲求を、あるていど本気にして、努力することで拓かれる現実の側面があるのではないか、と思うようになった。だから絵の練習をすこしずつすることにした。

 

 エヴァ旧劇は「現実」と「夢」を別のものとして分けたうえで現実への回帰を語ったが、それは暴力的じゃないかと、ずっと感じていた。

 われわれが生きる「現実」は、連続しない(独立しているわけでもない)個人の身体的なエスが動的に形成するゆるやかな「夢」みたいなものである。

 

 俺たちは神とか王とか、ファシストとかのアイドルが世界をまとめる(と人々が錯覚する)力を失ってしまった時代に生きている。それでみんな新しいアイドルを探している。しかし新しいアイドルは冷戦終結から20年近く経っても見つからない。それで死んだはずの既製品の再生産が蘇生されて受け入れられるようになった。ポピュリズムという名に再メッキされたファシズムと、レイシズムが広まった。ということなんだと思う。

 「レイシズムファシズムとそれに対抗する人々」というCNNや赤旗が描く図式は、政治上はただしいが、実際に対抗運動としてのデモやを行っている人間もアイドルを囲っていることが多いと思う。デモでジョージフロイド氏の写真をかかげているのってそういうことでしかないと思う。毛沢東語録やMAGAキャップと同じだよ。

 もう、気づくべきだ。アイドルのいない世界を作らないといけないんだ。殉死という概念から力を取っ払わないといけない。人の子はドラマではなく現象として殺されるんだ、英雄もメシアも存在しないんだ。

 アイドルの存在しない世界を作らないといけないんだ!俺たちは無力な一個の存在として、アイドルのいない世界で、自分の想像力と思考能力を翼のように広げて生きていくことでしかあたらしい世界は作れないと気づくべきだ。神話は滅びしか築けないが、人間の無力な肢体が有限の可動範囲のなかで表現する業には光がともる可能性がある。

 外付けのアイドルではなく、自分の表現能力を信じて一人一人が語ろうとしなければ、永遠にファシズムの焼き直しが徘徊しつづける。

 既成の世界で力をもった存在(歌手とか、セレブとか呼ばれる人)の言葉などを旗印にしてはいけない。むろん彼らも無力な存在にすぎないから発言は自由だが、有名人のことばなどに振り回されているようだからトランプの戦略が刺さってしまうんだ。

 私はこれが無理筋なことはわかっている。ジョージフロイド以前に十字架や国旗をかかえた人間の蔓延する世界で、殉死を捨てろというのは暴言に近いし、ファシズムレイシズムなどのアイドルに対して、対抗アイドルなしで戦えるかというと難しいだろう。

 だから今はしかたない、アイドルを使ってマシな世界を作っていくことに協力する。多様性という名の一元的なアイドルのために努力することで、拓かれる未来もありはする。

 だがその一方で俺は200年後の人間のために道を残せるようになりたい。LGBTQのケバケバしい旗のドぎつい色の中に俺はいない。顔文字の何パターンかであらわされた肌の色という名の「多様性」のなかに俺はいない。天皇が象徴するという「国民の統合」のなかに俺はいない。そう言い続ける。

 私が私のために広げる拙い想像力のなかにしか私はいないんだ、と言い続ける。

 

追記:文章がややわかりづらかったですが、私はデモに否定的なわけではないです。デモはもちろん支配構造と結託した差別と闘うには暴力や破壊活動すら肯定される余地があると思っている。

ガンダムTV版を久々に見た感想

 ガンダム未見の方は読まない方が良いかも。

 ガンダムテレビ版を小学生ぶりに通してみた。初見の友人と一緒に見たから、後付け設定とか意識せずに79年の一本のアニメとしてみることを心がけてみたら、なかなか新鮮に見れた。

 通しで見るのは10年ぶりぐらいだが、好きな回は頻繁に見なおしてきた。特に終盤なんか20回くらい見ていると思うから、終盤のニュータイプ関係の話が印象に強く焼き付いている。しかし改めてみるとニュータイプ論は後半になって唐突に始まる感じがある。

 終わりの見えない戦争がニュータイプの登場を契機に*1急速に終わりに向かう感じが劇的な躍動感があって、やはり奇跡的な作品だなあと思う。

 ただ、友人はそれを置いていかれたような感覚で感じていて、作品と視聴者の関係構築は難しいなと思った。

 おそらくだが、ガンダムという作品が当時ブームを起こしてその後末永く続くオタク文化の大成者となった理由もその距離感覚にあるのではないか。あの作品の終盤を心地よく感受できた視聴者には、急転直下で展開する物語に精神的に「同調できた」という感覚が発生する。それはただの面白さとは違って、内面が作品に適合したという成功体験である。それゆえに同じく「同調できた」人々と深いところでわかりあえた気になって、それが一層強いファンダムを形成する原動力になった、ということなのではないか。

 その感覚が監督である富野由悠季ら制作サイドにも伝わって、アニメ新世紀宣言とか『めぐりあい宇宙』での最後のメッセージ("And now... in anticipation of your insight into the future."(そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期侍します))につながったのだろう。

 さて、その「わかりあえる人類」という作品内外で提示されたテーマは富野由悠季の中でボロクソに否定されていった。その後の作品、ことに『イデオン』と『ダンバイン』ではニュータイプに相当する神秘的な力が出てきたがそれによって人間は滅びの道へ行ってしまうという結末を迎えてしまう。

 そして1985年の直接の続編である『Zガンダム』ではニュータイプ能力は死者の意思さえ引き出し、現象をねじまげるものにまで強化されるが、それによって悲劇は加速し、主人公の精神崩壊という衝撃的な結末で終わる。

 この変化についてはいろいろな見方があって、富野自身の挫折がどうとか80年代オタクファンダムの行き詰まり感が表れているとか、いろいろ評論されている。

 

 久々にテレビ版を見て驚いたのはそうしたのちの作品のテーマにつながるニュータイプへの冷徹な視点のセリフがテレビ版にもあったことだ。

 それは39話でギレンが期待のニュータイプ、シャリア・ブルに対して言った「それでいい、シャリア・ブル。人の心を覗きすぎるのは己の身を滅ぼすことになる。」というセリフ。そして39話のラスト、ガンダムにやられて死んだシャリア・ブルについてのシャアとララァの会話のなかで、シャアが「ララァニュータイプは万能ではない。戦争の生み出した人類の悲しい変種かもしれんのだ」と言うセリフ。

 この回の脚本を担当したのはJ9でおなじみの山本優さんだが、こうしたセリフをよしとした点に監督の見方も存在すると思う。つまり、この時点でニュータイプに対して肯定的に描ききれない感覚があったということだ。そしてそれを主人公ではなく敵役に話させている。

 「作者の言いたいことは描写の制約の多い主人公ではなく敵、悪役の方に出る」とよく言うが富野作品ではそれが顕著なことが多く、これもそういうものではないかと思う。

 主人公アムロは戦争の中の希望、理想としてのニュータイプであるのに対し、ニュータイプを戦争の道具として利用するギレンとシャアは掛け値なしの現実であるのかもしれない。それはビルドゥングスロマンの上で打倒すべきことであっても、理想主義とは縁遠い現実に生きる我々の実情なのかもしれない。

 そして、その対立軸は逆襲のシャアにおいて明確にテーマとして回収された、という風にニュータイプの話を語れるかもしれない。

*1:実際に物語において戦争を終幕へ導くのはソーラシステムの大量殺戮なのだが、見ている気分としてはニュータイプという謎の概念で風向きが変わる感じがある

エヴァQの内容まとめ

無料公開で久々に新劇を見た。

エヴァQの前半、破のセカイ系的ヒーロー展開に対して「お前が目をそむけても世界は存在するんだよ」という現実を突きつける感じでマジでよかったと思う、

それは事実上旧劇に対するアンチテーゼでもありうる。

ただそれ以外に分からないことが多すぎる(そういう一見して分からない作り方も好き)

エヴァQってどんな話だったのか?調べても考察まじりの怪文書しか出てこねえ!モヤモヤしたので自分の理解だけをまとめてみました。とは言っても確定的な説明描写は皆無なので考察も結構入ります。


 リリン(人間の使徒としての名前)以外の使徒は半永久的に生きる命を持っていて、

 使徒のオリジナルであるアダムかリリスと人間が合体することで神になれる。

 神になったパワーで人間の魂を全部一塊にして

上位存在になろう、というのが旧作での人類補完計画である。

 セカンドインパクトもそのための前段階としてゼーレが企図していたものみたいだがなんかいろいろ暴発して人間の大量死を招いたっぽい

使徒がなんでくるのか俺は知らんけど使徒にとっても親であるアダムやらリリスやらは重要らしいことと、(旧作のカヲル君の話からすると)補完計画を起こされるのも嫌らしい。

 

たぶん新劇でもそこらへんの基本設定はそこまで大きくは変わらないはず。

で、ゲンドウもその補完計画をやろうとしているんですが

ゼーレのやりたい大量のエヴァでやる発動ではなく

リリスの体、リリスの魂とユイのDNAから生まれた綾波レイリリスから生まれた初号機(ユイの魂入り)、碇シンジサードインパクトを起こさせようとしています

そうすることで初号機に取り込まれちゃったユイとまた会えるってことですね

そのための前段階が破での初号機の覚醒だったんでしょう。

ところがシンジくんが、使徒に取り込まれたレイを助けようとしてめちゃくちゃ頑張った結果、シンジくんとエヴァ初号機が旧作とは比にならないほど合体して神化(擬似シン化だっけ)、手順をすっ飛ばしてサードインパクトが発動します。

 ゲンドウ的にこれがどういうものだったのかわからない。これは憶測ですが、サードインパクトがそのまま進んでもよかったんじゃないかな、Qでレイと合体したリリスのむくろが出てきたので、おそらく旧劇と同じようにレイとリリスを介した補完をしようとした。

 一方ゼーレの予定とは違ったことは間違いない。旧劇では儀式に参加するエヴァの数を気にしていたので初号機単機だと問題がありそうではある。(どう問題なのかは知らん)

そこでゼーレからやってきたカヲルくんがロンギヌス槍(ATフィールドを貫通して使徒を殺せる)をぶん投げて初号機を活動不能にさせサードインパクトを微妙に不発なものにします

 ただそれで終わったわけではなく色々あったらしい。おそらくゲンドウが仕組んだんじゃないかな。リリスの再生とかまではいったんでしょう。だがリリスにも槍が撃ち込まれてリリスの活動は停止した、というところでニアサードインパクトは終わったんだろう。

 ゲンドウにとってどこまでが目論見通りだったのかは不明ですが、

結果的にゲンドウ、ゼーレ、そして普通に生き延びたい人間たちの三者にとって望みが残る結果になった

 ただサードインパクトが完成しなかったことで綾波レイを取り出すことは出来なかった。シンジくんかわいそう。

 


 で、ゲンドウは続くフォースインパクト(目的はサードインパクトと同じ)のために頑張ってたんだろうと思うんですが

 その目的がヤバいことに気付いたミサトさんたちが補完計画阻止のための反乱を起こして14年間ドンパチしてたんでしょう

 ただ補完計画に関わっていたはずのリツコさん、そして色々ありそうなマリがいることを考えると、やっぱ別の目的がありそうに思える

 その間のどっかでゼーレはなんかよくわかんないなにかに変化して、ゲンドウに協力(もしくは服従)するようになったってのが14年間の出来事なんだろう。

ネルフがフォースインパクトのために宇宙に匿っていた初号機をヴィレが奪いにいくというところがQのはじまりですね

 


 今回唯一の説明役であるはずのカヲルくんが何を言ってたのかよくわからないのだが、話を整理すると、カヲル君は槍二本つかってフォースインパクトを防ぎながらリリンを上手いこと立ち直らせてシンジくん救ったろうってことだったんだけどゲンドウの罠で失敗。

 それどころかアダムに近い第一の使徒であったカヲル君が13使徒になってしまう(たぶんリリスの代役になった)ことと、シンジくんの槍抜きによるリリスの復活によってフォースインパクトの条件がクリア。

 ガフの部屋(人間の魂置き場)が開いて人類補完計画がスタート!

ニアサードの時とどう違うのかわからないが、付き添いのmark9も変化しているし、周りには(敵対しているとはいえ)エヴァもいっぱいいるってことでサードのときより状態が良さそうではある。これでゼーレの願いは叶うらしい。ゲンドウの問題はユイが入った初号機で起こさないといけないこと。

 そこでパチモンの綾波が「アダムスの器(謎)」となってヴンダーを乗っ取って初号機を取り返そうとするがアスカの改ニ号機の自爆によって失敗。

 さらにカヲルくんが自殺することで起動条件が一つ消え、マリの8号機がシンジくんのプラグを射出することで13号機が活動停止、フォースインパクトは完全に失敗、カヲルくんを失ったシンジくんはまたガン萎え…というのがQのお話

であってんのかな。

 


なんかただ理解をまとめただけだとブログ記事としてどうなのって気もするのでエヴァのキモオタ恒例の次回予想(あたったのを見たことがない)でもするか。

自分としては破で救えそうだったレイの魂がリリスの死体に入っていそうなとこが気になる。つまり補完計画を起こせばあの綾波レイにまた会えるぞってことになるんじゃないか。

希望を失ったシンジくんに動く動機があるとすればレイのサルベージくらいしかなさそう。ということから導かれるながれは、真っ当に世界を救おうとするヴィレとフィフスインパクトを狙うネルフの戦いのなかで、綾波レイを取り戻したいシンジくんがフィフスインパクトを起こそうとするけどみんな溶けちゃう補完計画には反発して旧劇みたいになる、という展開が予期される。

だが毎回前作の流れをぶっ壊すことに新劇の(唯一の)アイデンティティがある、ということはその逆で、ネルフではなくヴィレによってもっと変なことが起こされて、今までにない補完計画みたいなのが起きて(神殺しってやつかな?)それに対して今度こそシンジくんとおかんが動くぞ!という展開になると予想。

公開された冒頭映像のパリ復活も神殺しのための準備なんじゃないかな。帝都物語みたいに土地パワーを使っていろいろするんじゃないか。

まあどうなるかはどうでもいいから、タイトルの匂わせかたどおりに、旧作と新劇を包括する終局を見せてくれたらいいよなあ。

日記:コンビニで働きはじめた

コンビニで労働しだした

 誇り高き無職というエデンを辞してコンビニ(○ァ○マ)で働きだした。そこそこ続けられる気がする。ごめん嘘かも。

 おにぎりの並べ方が微妙に綺麗でなかったとして先輩のおねえさまに怒られた。「こんな並べ方でさぁ、買いたいと思う人いる?!」俺は気にしないけどなあ。

 ファ○チキや肉まんの袋はトングで食品を入れる前に手で少し広げる必要があるが、そのときに手洗いやアルコール除菌をする必要は全く無いらしい。*1ついでに言うと仕事初めに手を洗う規定も無い。つまり、いつ洗ったかわからない、大量に小銭やお札に触れた人間の手垢が、ファ○○キや肉まんには染み付いているのだ。

 俺はそっちの方がめちゃくちゃ気になるんだがな……。二度と○ァミチ○は買いたくないね。

 まあそういう人間的主体的な思考などアルバイトには不要なのだ。心を無にして汚い油で揚げた汚い鶏肉を売ろう。


 客を見るのはなかなか楽しい、駅前なので客層が広く、いろんな人の所作や容姿を観察できて興味深い。柳原可奈子は実際に電車や服屋で見た人間を元にあのものまね芸を生んだというし、折口信夫は能や和歌の源流は鳥獣人物を真似るモドキと呼ばれる歌や舞踊(万葉集の古歌に残る)にあるとしている。俺の漫画のキャラには人間味が少ない(狙っていることもあるが)から、ものまねを体得していきたいものである。

*1:店によっては違うんじゃないかとは思います