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檜山バターン(@hiyanimation)のブログです。note(https://note.com/batahiya)では別の記事を載せていてそっちの方がちゃんとしてます。このはてなブログは知人に読まれることを想定していることが多いです。

ガンダムTV版を久々に見た感想

 ガンダム未見の方は読まない方が良いかも。

 ガンダムテレビ版を小学生ぶりに通してみた。初見の友人と一緒に見たから、後付け設定とか意識せずに79年の一本のアニメとしてみることを心がけてみたら、なかなか新鮮に見れた。

 通しで見るのは10年ぶりぐらいだが、好きな回は頻繁に見なおしてきた。特に終盤なんか20回くらい見ていると思うから、終盤のニュータイプ関係の話が印象に強く焼き付いている。しかし改めてみるとニュータイプ論は後半になって唐突に始まる感じがある。

 終わりの見えない戦争がニュータイプの登場を契機に*1急速に終わりに向かう感じが劇的な躍動感があって、やはり奇跡的な作品だなあと思う。

 ただ、友人はそれを置いていかれたような感覚で感じていて、作品と視聴者の関係構築は難しいなと思った。

 おそらくだが、ガンダムという作品が当時ブームを起こしてその後末永く続くオタク文化の大成者となった理由もその距離感覚にあるのではないか。あの作品の終盤を心地よく感受できた視聴者には、急転直下で展開する物語に精神的に「同調できた」という感覚が発生する。それはただの面白さとは違って、内面が作品に適合したという成功体験である。それゆえに同じく「同調できた」人々と深いところでわかりあえた気になって、それが一層強いファンダムを形成する原動力になった、ということなのではないか。

 その感覚が監督である富野由悠季ら制作サイドにも伝わって、アニメ新世紀宣言とか『めぐりあい宇宙』での最後のメッセージ("And now... in anticipation of your insight into the future."(そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期侍します))につながったのだろう。

 さて、その「わかりあえる人類」という作品内外で提示されたテーマは富野由悠季の中でボロクソに否定されていった。その後の作品、ことに『イデオン』と『ダンバイン』ではニュータイプに相当する神秘的な力が出てきたがそれによって人間は滅びの道へ行ってしまうという結末を迎えてしまう。

 そして1985年の直接の続編である『Zガンダム』ではニュータイプ能力は死者の意思さえ引き出し、現象をねじまげるものにまで強化されるが、それによって悲劇は加速し、主人公の精神崩壊という衝撃的な結末で終わる。

 この変化についてはいろいろな見方があって、富野自身の挫折がどうとか80年代オタクファンダムの行き詰まり感が表れているとか、いろいろ評論されている。

 

 久々にテレビ版を見て驚いたのはそうしたのちの作品のテーマにつながるニュータイプへの冷徹な視点のセリフがテレビ版にもあったことだ。

 それは39話でギレンが期待のニュータイプ、シャリア・ブルに対して言った「それでいい、シャリア・ブル。人の心を覗きすぎるのは己の身を滅ぼすことになる。」というセリフ。そして39話のラスト、ガンダムにやられて死んだシャリア・ブルについてのシャアとララァの会話のなかで、シャアが「ララァニュータイプは万能ではない。戦争の生み出した人類の悲しい変種かもしれんのだ」と言うセリフ。

 この回の脚本を担当したのはJ9でおなじみの山本優さんだが、こうしたセリフをよしとした点に監督の見方も存在すると思う。つまり、この時点でニュータイプに対して肯定的に描ききれない感覚があったということだ。そしてそれを主人公ではなく敵役に話させている。

 「作者の言いたいことは描写の制約の多い主人公ではなく敵、悪役の方に出る」とよく言うが富野作品ではそれが顕著なことが多く、これもそういうものではないかと思う。

 主人公アムロは戦争の中の希望、理想としてのニュータイプであるのに対し、ニュータイプを戦争の道具として利用するギレンとシャアは掛け値なしの現実であるのかもしれない。それはビルドゥングスロマンの上で打倒すべきことであっても、理想主義とは縁遠い現実に生きる我々の実情なのかもしれない。

 そして、その対立軸は逆襲のシャアにおいて明確にテーマとして回収された、という風にニュータイプの話を語れるかもしれない。

*1:実際に物語において戦争を終幕へ導くのはソーラシステムの大量殺戮なのだが、見ている気分としてはニュータイプという謎の概念で風向きが変わる感じがある