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檜山バターン(@hiyanimation)のブログです。note(https://note.com/batahiya)では別の記事を載せていてそっちの方がちゃんとしてます。このはてなブログは知人に読まれることを想定していることが多いです。

選挙の感想(2021年 衆院選)

 

 けっこう意外な結果だった。維新がここまで伸びるとは思わなかった。いろいろ考えたが「新自由主義」との相性ということなのかもしれない。

 けっこうできた反与党票をすべて維新(とちょっと国民民主)がかっさらった。ということでまずは「提案型野党」なる言葉が主権者に刺さった可能性を考えた。実際それはあるのだろう。「今の野党は妨害的な批判ばかりでダメだ」という、ネットに流布している文言が、わりと主権者の多くの感覚だったのだろう。国会というのはみんなで仲良く意見をもちよって決める、そんな学級委員会のようなシステムとしてそもそも作られてはいないのだが…。まあそれはいい。

 

 維新について思うのは何も成功していないのだ。まあこのコロナ禍で何か誇れる業績を成し遂げた政党などどこにもいないのだが、大阪において明確に失敗したのが維新という政党だったはずだ。

 

 なぜ大阪が人口、人口密度で勝る東京以上に感染が大変なことになったかと言えば、維新が行政のスリム化を訴えて公立病院と保健所を減らしたからだろう。そして行政支出を下げたはずなのに、維新が牛耳るようになってからの大阪の財政は全然回復していない。なのに今回なぜ伸びたのだろうか。メディアの囲い込みが行われている近畿以外でも議席を獲った。

 

 いろいろ考えたんだが、とどのつまり新自由主義的なことを言う政治家にこの国の主権者はとても弱いということなのかもしれない。

 私はコロナ禍で新自由主義の限界を見た思いをした。維新が主導する大阪はコロナに大敗北したし、補償ではなくGOTOキャンペーンやオリンピックを強行する菅政権の対応は強く批判された。
そして岸田政権は「新自由主義からの転換」を一応掲げている。新自由主義では結局ダメだということがわかった…そんな流れがあるんじゃないかと思ったのだが、この国の主権者にとっての改革のイメージはいまだに「税金の無駄遣いをとめる」というお題目なのかもしれない。

 

 思えば小泉政権が役所にパソナ派遣社員を導入したりしても小泉の人気は落ちなかったし、民主党が政権を取ったときに注目されたのは「政治主導の行政」、「事業仕分け」だった。そして「アベノミクス」をやっている限り安倍政権はどんなボロが出ても(最初に言っていたトリクルダウンが全く発生しなくても)盤石だった。

 それらが意味するのは、結果が全く伴わないことでも、新自由主義的なことをすれば国民の大勢は喜んでくれる、ということなのかもしれない。

 

 選挙報道で見た維新の松井代表の演説は印象に残った。「この国の経済をよくするには二つ方法があります。一つは経済成長させる。だけどこれは難しいです。日本は30年成長していないんだから。もう一つは税金の無駄づかいをなくすこと。これは簡単にできる…」というようなことを言っていた。

 軽妙な語り口は聞きやすかったし一定の説得力がある気はした。だがその失われた30年の内の20年くらいは概して新自由主義でやってきたのだから、それは失敗した(現に大阪で失敗しつづけている)路線の継続でしかないのだ。

 

 まあ、国民が改革を求めているっぽいこと自体は良いことかもしれない。未来への希望を持って行きたい。次の参院選では改憲が争点になる可能性が高いらしい……。まあ頑張って主権を行使していこう。

陰謀論にハマった父を救えない

居間で垂れ流される陰謀論、たすけて~

 父親がトランプ勝利説の陰謀論の動画を見るのにハマっている。別に知りたくないんだけど、スピーカーで下世話なyoutuberの言説を垂れ流しているのが休日ずっと聞こえるからわかる。本当に悲しい……。
 私の父親は学歴も大学中退の俺よりはあり、ここ30年近く建築の頭脳職をやってきた人間だが、人文学的教養とコミュニケーション能力が欠如した人間である。昨年ごろかな、ネトウヨ臭い動画(日本の国益は某国人によって奪われている!系のやつ)を見ているのを最初に知ったときはネットリテラシーないとああいうのにハマる時期もあるよなあと思った。私も2ちゃんねるネトウヨ言説に中二のころは罹患していたから、まあ教養の低い人間がやる通過儀礼のようなものだと思ったわけだ。
 ところがどういうわけか、今では休日じゅうずっとそんな動画を見ている。いままで政治に熱をあげたことがない人間がだ。いまでも新聞やまっとうな書籍などはいっさい読まないからマジでトランプの陰謀論だけ一日中追っているようである。

 

なぜはまっちゃうのか

 まずいうまでもないことだが、不正選挙などというのは根も葉もないデマである。最初はいろいろ錯綜していた(といっても信憑性のある証拠はなかった)が、いまでは各州の裁判所がトランプ側の訴訟を棄却し、トランプ政権の中枢にいた人物も続々と離反している状態で、これはもう終わった問題と言っていい。なのでソースとかわざわざ貼りません。
 しかしそもそも、なぜそんなことを一日かけて見続けるのか謎である。仮に大統領がトランプになったところで、日本の庶民のオッサンに入る銭も益も一切ない。「バイデンになったらアメリカが中国のものになる」みたいな与太を信じたところで、なにかできることはない。だが、インターネットを概観すると、この陰謀論に御執心の方は多いようだ。だからこれは日本国内においては政治的な問題と言うより、一種の宗教的なムーブメントと見るほうが正しいだろう。

 それでなんでこんな宗教的イベントが起きているのか考えました。

 見ていて思うんですがネット右翼的な言説や陰謀論に入れ込む人、特に中高年って、居場所がないんですよ。ちゃんと自我や、マイノリティとしてのアイデンティティも持てない人は、どっかにイージーで、なおかつ自分を特別にしてくれるアイデンティティの置き場所を求めちゃう。
 それでトランプの陰謀論にハマることで、自分たちは「大国アメリカの真実に目覚めた戦士」として、「アメリカの偉大な朋友日本」の代表として生きられる!というアイデンティティの持ち方をしているんだと思う。その先がアメリカなのは謎だけど、まあ菅総理じゃダメなんだろうな……というのはわかる気がする。
 そういう人間にどうにかして、「簡便な外付けのアイデンティティなんかなくても、あなたはここにいてもいいんだ」って言う必要がある。速水螺旋人先生が「だれかトランプを抱きしめてあげれば…」みたいなことを言っていたがそういうことだと思う。でも世の中それは誰もやってくれていない。

 

 

CMは世界を改善しても救ってはくれない

 例なんですがナイキの話題のCMありますね。それがしは大企業のマーケティングに踊らされたくないと思ってみてなかったんですが、友達の会話に上がったので今日見た。まあそれ自体にとくに言うことないですね。「スポーツをやってアイデンティティを得る」ってことはそんなに称揚されるべきふるまいなのかなって思いましたけど、まあCMだからいいと思いますし、あれで勇気をもらったという人がいることは結構なことだと思います。
 で、問題はこれへの反応です。まあ想定どおりネット右翼とかがふきあがったわけですが、twitterでは「これに反発するのはただの差別主義者」「炎上じゃなくてただの言いがかり」みたいなリベラル系の人の反発者に対する切り捨てた反応とかがいろいろ見られました。
 私は「そういう流れが正しいの?」って思いました。たしかにあのCM見て「日本を貶めている!」とかいうのが愚昧で非論理的で、結局差別意識の発露でしかないのは間違いないでしょう。でも、わざわざそんなこと言わないとやっていけないあわれな人間を救わないと、誰もが尊重される生きやすい世界は築けないんじゃないの?


 ナイキという企業にとって、ネット右翼的なことをわざわざ書き込んで、ナイキ不買!とかやっちゃう人はしょせんラウドマイノリティだから、そこで起きる分断は痛手にならない。でも(高確率で)日本列島で死ぬまで暮らさないといけない我々民衆は、その分断と対峙しないといけないんだ。なら、そういう「差別=バカ、反差別=かっこいい」みたいなマーケティングに乗っかって、ネトウヨをバカにしつづけるのは違うだろうって思います。なによりも、本領を発揮したファシズムのかっこよさに、「差別に反発するのってかっこいいよね」みたいなのが勝てるはずがないのでそれは負け筋なんじゃないかな。
 いまのネトウヨヘイトスピーチなんかは激ダサですけど、国家が明確にファシズムに加担すると、ベルリンオリンピックとか、日本の対外プロパガンダ「FRONT」とか、ソ連社会主義リアリズム広告みたいなのがポンポン作られるようになる。そうなったら負けです。電通は今までも日本政府と自民党の仕事をいろいろ請け負っていて、まだダサいけどいずれはかっこいい宣伝をやれるようになると思う。そうなってから日本政府が排外主義や全体主義にふりきった場合、「ここにいてもいい」という安らぎよりもファシズムに加担する楽しみが勝つから手遅れになる。

 

この世界の片隅に』の「ここにいてもいい」

 「この世界の片隅に」という映画は、それを描いていたと思います(長尺版は未見ですがマンガは読んだ)。あの作品は「居場所のない少女が『戦争に協力する主婦』というアイデンティティを持ち、それが敗戦で崩壊し、最後に地に足ついた居場所を手に入れる」物語だと言えます。
 あの作品で私にとってもっとも重要なシーンは主人公すずを微妙にいびっていた義姉径子がすずに対し不器用なりに「ここにいてもいい」と言うシーンですね。

 嫁ぎ先の居心地が悪いなかで「一億玉砕」といったプロパガンダを真に受けて、戦時総動員体制に参画することに喜びと充実感を得ていたすずが、そうした外付けの「居場所」をあきらめて、この世界の片隅で一人の人間として生きるきっかけになるという意味であの作品における救いかなと思います。

 それを実際にいま、ネット右翼に対してもやればいいのかなって思うわけですよ。ただ『この世界』は戦中の19歳の少女で、2020年の目立たない中年男性でやれるのかというと……。無職の息子である私が父親に「あんたがイヤんならん限りあんたの居場所はここじゃ」と言っても殺されるだけですからね(笑)。いや笑いごとちゃうんや、これがわりと問題の中核かもしれん。

 

中高年のあつかいづらさがキモ?

 ネット右翼を構成するのが中高年の男女であることはいろいろな調査でわかっている。それはやはりそういう中高年に居場所を肯定してやることが難しいという点につきるだろう。外付けのイデオロギーにハマっちゃう程度に確固たる自我がないくせに、年くって無意味に年功序列の偉さが発生し、思考の柔軟性も落ち、見た目も(おおむね)良くなくて、老人としてあやせるほど老いてもいない存在。救いづらすぎるだろ……。おまけにプライドは高いし、日本という国にいまだ経済大国の幻想を見ているとくれば、これはもうどうすりゃいいかわからん。

 でも自伝をもたない味気ない中年のなにげない日常も、世界を面白くしていると思うんだけど、なんで気づいてくれないんだ……。

 

 だから私は自分の父親をどうこうしようとは思わない。無理なものは無理だし、関わって私が苦しくなるのはごめんだ。でも作品を作るものとして、他者に居場所を保障するものを作りたいと思った。

 最近見聞きしたものだと、ゆるめるモ!の「おこらないで」という曲が良かったです。具象的な言葉は出てこないけど、どう聞いてもネット上の不毛なレスバトルや誹謗中傷をとがめている。とげとげしさがいっさいない。俺もアイドルになるか……。

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不可能性、涙

 今日はファミレスで漫画を書いたのですが、途中から涙が出てきました。それで泣きながら漫画を書きました(なにやってんですかね)。それは漫画の物語、登場人物に入れ込みすぎたからだろう、と原因の推測はつきました。でも、なぜ涙が出るのか直接的な理由はわからなかった。ましかし、これはどうも尋常ではないぞと思いました。

 ということでもやもやした考えをアウトプットしてみよう!

 

 まえに、人間は(あるいは生命は)「できないこと」によって形づくられるのだと考えた。人間はできないことだらけなので、個人の成長や特質は「できること」ベースで考えられるけど、実際は、手に入らなかったものが人間を作るのだと思います。

 「挫折や失敗が人間を作る」などというレベルではなく、人の意思は全て、不可能な何かに向けられているわけです。飢えや疲れは、その場では克服が不可能だから、食べたいとか寝たいとか欲求が発生するんだ。逆に心臓の拍動への意志を持つことはほぼない。明瞭な意識を持っている状態で、心臓が止まっているという状態はまずないからだ。(心臓が止まるという不可能性を仮想した上で止まらないでと願うことは可能)

 全ての根源が不可能性だから、不可能とは関係なさそうに見える日常の全ての感情も不可能に対する方向性をもっている。

 言い方を変えれば「コントロールできない何か」が人間の感情を、人間を作っているのではないか。お金が人を支配するのは、多くの人にとってコントロールしがたいものだからかもしれない。

 で、それでいくと「コントロールできない、不可能な何か」の集合体が世界なのだろう。

 その人にとってあずかり知らぬどうでもいいことは、なんの不可能感も与えてこないので、それは世界に存在しないのだ。

 この考え方で言うと、人間が重力を実感できるようになったのは、宇宙が今の形になったときでも、ニュートンが引力を発券したときでもなく、人が重力の異なる空間を想像できるようになったときである。それまでは重力ではなく自己の重みでしかない。

 遠い大陸の貧困が自分につながっていてそれがもたらす、なんらかの不可能性に気付いた瞬間、それは明確に世界に存在するようになるのではないか。逆に、認知しない限り、隣り合う人々の苦しみさえ存在しない。

 

 人間の主体的な思索とは、不可能性を知り広げていくことで、逆説的に自己を掘り下げることかもしれない。よくわかんないけど。その苦しみが、私を不可能の深淵、死へと導いていく感じがする。

 人間に不可能を与えたのはおそらく生である。死者に不可能性はない。なにもできないのだから不可能という概念が無いのだ。

 いつか死に至るという宿命は、人間が行える全ての行為を「期限付きの可能=条件つきの不可能」として規定する。

 私が私を心配するほど苦しんだのは、生くることが抱えた膨大な不可能を直視しすぎたからかもしれない。

 神や祈りといった神秘は、不可能性を直接摂取せずに止揚、もしくは迂回するためのものだ。

 そして涙は、涙を流すという動作(=可能の表現)を行なうことで、不可能に押しつぶされそうな人間の精神を、人間の肉体がフォローする現象なのかもしれない。

 涙の美しさは不可能性をにじませる神秘の光ということになるのかもしれない

 だから不可能性に神々しい光をまとわせるべきかもしれない。

 

政治の話題で1984年を話題に出すのベタすぎるかもしれないけどベタな悪政だから仕方ないじゃんねって話

 「1984年」に影響された作品を書いているのですが、学術会議への任命拒否や、キットカットが知らぬ間にちっちゃくなってるなど、「1984年」っぽいニュースが多くて辟易する。今回の作品ではべつに風刺性を出そうと思って描いてないのに……。

 あの作品において最も重要な点は「情報公開と情報の透明性」が健全な国民国家において必須のものであり、独裁や全体主義は情報の統制と隠蔽によって起きることを書いた点であるように思います。

 その点で、安倍政権から菅新政権への流れは完全にその徹を踏んでいるように思います。不祥事や問題に対して、まったく答えず、情報の隠蔽ですます。大日本帝国と比較する声が出るのも当然ですが、国民主権の題目があるのに、なんとなくのムードを追い風に情報統制を進める姿はソ連のようです。

 ナチスドイツが勃興したとき、ナチスの幹部さえあそこまで大規模なユダヤ人虐殺をするつもりはなかったと言われています。そして、大日本帝国関東軍満州事変を起こした時点では、まだ米英を相手に勝ち目のない戦争をするつもりはなかったでしょう。

 安倍にも菅にも、戦中のような、人権の蹂躙された独裁体制を敷くことは目的ではないでしょう。せいぜい自分たちのいいように政局を安定させ続けたいという欲望くらいだと思います。だから桜を見る会にヤクザ呼んじゃうようなポカをする。今回の学術会議も、ここまで大ごとになるとは思っていなかったようだという政務三役の声がニュースになってました。
 しかし先述のとおり当人たちにその気はなくてもズルズルと悪化していって歯止めが効かなくなるのがいままでの流れでした。

 権力の暴走をなんとかして止めないといけない……!と思っているところに静岡県知事による最悪な形の菅批判が起きてしまった。本当に何をしてくれるんだ。そういう問題でもないし、そういうエリートによる軽蔑の目が反知性主義に錦の御旗を掲げさせちゃうんだよ。 

 

 

 という具合に最悪なニュースばかりが並ぶと漫画にも悪影響が出そうだ。コミティア漫画だったらいっそのこと政治漫画にしちゃうか?!みたいな舵の切り方もできるんだが、今回はそうもいかんし、地道にBL漫画を描くしかない。

日記

 今日はnoteを更新できる気がしない。何もできず、何も考えなかったからだ。

 

 しかし何も更新しないとよくない気がするので今週の日記と今日思ったことを記しておく。

 

8/30(日曜日):無職の土日はつらい。両親が家にいるからだ。

でかけようとも思ったがなんともしがたい。

5年くらいの付き合いがある友達から電話がかかってくるのでやや(38分)話す。27日に更新した「親を謝らせた」話の感想をもらう。

「伝わりやすすぎて、読んでいて檜山君のRPGをやっているみたいだったよ」と言われる。あなうれし。

話していろいろやる気がわいたので「たぬきとミッキーマウス」と題されたディズニーについてのちょっとした調べもの記事を書いた。

深夜に書かないのはいいことだ。

 

 

8/31(月曜日)

夕方に動画をつくる。

たしか同志リツコと話す。通話はしたようなしてないような、どっちだったか。

あとはメジャーで一日遊んでいた気がする。バグゲーではなく巻き尺の方。
本当にどうしようもない無職の日である。
それでいろいろ測って遊んでいたのだが、せっかくなので股下も測ってみたところ86.5㎝と出た。
ネットで調べてみると身長177cmの日本人男性の平均股下は82弱らしい(1992年のデータだが)ので、誤差とか考慮しても平均より相当長いことになる。
今まで足長いといわれても実感がなかったがたしかに長いらしい。

得になるシチュエーションは浮かばないがうれしかった。

あと腰の高さはちょうど100㎝だった。これはいろいろ目算するときに1mの高さのサンプルがあることでちょっと便利そう。

 

寝る前にあるnoteへの批判文を書いた。調べものに時間がかかってしまった。

 

9/1 (火曜日)

書きかけの漫画を描きながら、友達の絵描天と通話する。
話しながら、ラブドールについてのレポ漫画の話題になる。

異常な性的嗜好の見本市ともいわれる俺はこういうものはあまり見たくないのだが、せっかくなので見てみた。

そのときには問題の中心がよくわからなかったのだが、通話終えてから飯食いながら考えてたら、問題の本質は至極シンプルであると気づいたのでnoteのネタにする。

ネタにするという言い方はよくない気がするのだが、今日更新のnoteのネタがないな~と思っていたところなので、事実なのだ。

 

更新したらすぐに美術家の「名もなき実昌」さんに言及していただける。うれしいなあ。

しかし、いろいろやりとりをしていただくなかで、じぶんの説明と理解が足りないことに気づく。

やはり書くには学習が足りなかっただろうか……?

怒られたりするようなレベルの不見識ではなかったと思うし、実昌さんにはすごく丁寧に応対していただけた。しかし年下の無職に対して「尊敬している」とかそんな言葉まで使っていただいた、今思えば器がデカすぎる。 

 

結論としてはセンシティブな話題について書くにはもうちょっと慎重さが要るなあと思った。記録として記事はそのままにしておくことにした、とりあえず。

自分が性的マイノリティに入ることを免罪符に軽々しく発言する奴は嫌いなのに、近いことをしてしまったかもしれない。

 

9/2(火曜日)

今日、起きたら昼の2時だった。

心も重く、やる気がおきない。

最近前髪を切ろうと思っているが、そんな気もおきない。

しょうがないのでアニメを見る。

アイドルタイムプリパラをみる。

まぁまぁ面白い。

鉄腕アトム(白黒アニメ)の2話を見る。

異常なほど出来がいい。心理描写などがめちゃくちゃうまい。演出は手塚治虫だが、手塚特有の早すぎるカット割りもなく、いいテンポ感だし、撮影もいいし、枚数も多い。

出来が良すぎて、途中の、アトムが親がいないことに苦しむパートで普通に衝撃を受けてしまう。なんも考えたくねー。

 

なんとなくチェスをやるとなんかめちゃくちゃ調子がよくてビビる。4連勝くらいしている。なんも考えたくないときはこういうものの調子が良くなるときがある。

 

日記(政治について、について)

千と千尋」のリンの声優が政治的発言してる!許せないって言ってる人がいた

 消えるかもしれんから、引用します

この人、「千と千尋の神隠し」のリン役。知らないうちにこんな人になっていて、リンが好きだからショック。今後「千と千尋の神隠し」のリンを観るたびにこの人の思想を思い出してしまう。だから芸能人が政治的発言をするのを快く思えないんだよ…

そんなスタンスでよく宮崎駿の作品なんか見れるな……と思ったが
そいつにとっての世界はせいぜいツイッターで“流れてくる”情報だけなのだろう。
監督である宮崎駿ツイッターやってないから宮崎駿のガチ左翼活動は存在しないのだろう。

こういう「(他者によって)選ばれた情報」に慣れすぎて、視野が狂った人間が量産されたのがいまのネット村社会だ。
そしてそういう人間に適応したのが
この7年、日本に君臨した社会システムなのだろう。
小泉のB層戦略からしてそうだったが……時代がドクトリンに追いついたのだろう。

そういう人間に世界が実はノイズまみれであることを明かしてやりたいが、

まあTwitterで欲しくない情報が流れるのは嫌なのは当然だ、同意します
頭使わないでみたい、と思うのは大量の短文と画像を処理する必要があるツイッターでは必須の思考方向性ではないか。
みんなでシャボン玉吹いているときにトラメガ持った政治演説が来たらちょっと嫌だろう。
まあその嫌さくらいは受け容れろよって話だが、Twitterはやっぱり構造的にだめ、

MAGAとかCHINA!しか言わないトランプの使い方は(メディアへの適応性という意味で)正しい。

noteはそこそこいいスピード感と読ませる態勢があるように思うが……どうなのじゃろう。

ソクラテス孔子は書物による伝導を信じず対話のみを重視したが、
それは大事な観点だと思う。

顔と顔突き合わせてタイマンで話すとしたら、そんなの聞きたくない!と逃げることはほぼ不可能だろう。

さかのぼるが、「政治発言許せない」とのたまった方が引用ツイートした玉井夕海さんのツイートはそもそも、松任谷由美安倍総理に感情移入して泣いたと言ったことに苦言を呈したものだった。

 


じゃあまずその論理でまず批判すべきは、政治家とロマンが同じとまで言いおった松任谷由美なのではないかと思ったが、そういうことはツイートしていなかった。
かわりにったのは安倍政権を批判する人間への冷笑ツイートばかりであった。
そういうダブスタ、というか本心(政権へのしっぽ振り)が見え見えなところに国語力の低さを感じずにはいられない。

かつてキリスト教会はほとんどの信者が非識字者(文盲)であるためにステンドグラスを使って説話を伝えたという。
我々が世界のごちゃぐちゃ性を伝えるにはそういう努力もいるかもしれない。とか書くとなんか下に見ている感じが出すぎか、まあいろいろ伝え方工夫しねえといけねいやってことです。
大人が児童に自発的に先生の意をくむことに期待するのも社会悪である。

 

 

とりあえず政治に関することははてブでだけ書こうと思う。内向きというか、知り合いの方々に読まれること想定。

政治発言するのをビビッているのか?と問われれば、半分是で半分否である(といいたい)。

私はnoteは売り物になるくらいのコンテンツとして作りたいとおもっている。

日記なら思ったことを羅列してもいいが、政治に関することばは、感覚だけで書いても

ちゃんとした文にはならない。それは政治的な倫理のはなしである。

 

そしてそもそも、政治を読むには前提となるニュースや知識が多い。

読み手がまったくそのような前提を持っていなかった場合、いたずらに分断をあおることになりかねない。Twitterで日夜行われるネット論争の不毛さはそこに元凶がある。

 

逆に言えば私は、ちゃんとソースを集めてちゃんと構成した文なら、面白おかしいコンテンツとして成立するものではないかと希望をもっている。

それも論文のような固い言葉ではなく、今日のこの記事くらいには平易な言葉で……って思ったが、そんなに平易でもないな。もっとがんばります。

日記(原爆について)

 今日は広島原爆の日ですわ。過去の惨劇は今も凄まじい力を持って我々に戦争の悲惨さを伝えてくれるが、現行の政治や市民団体からメッセージとして流されるおはなしは悪い意味で変わらないっすね。

 どういうことかというと、被爆者団体などのスタンスが「原爆、核は絶対悪である」というものなせいで現実に対して発展的な思考ができてないんです。

 まず言っておきますが市民30万人が消し飛んだ惨劇を見た当事者がそれを絶対悪だと憎むこと、自体は仕方ないと思う。あと核兵器禁止条約にも賛成です。でも核兵器を悪と見なすことによって冷静な認識から離れていないかって思うんです。

 いわゆる「原爆の正義」はあります。原爆は戦略上意味のない殺戮だったって言い方がありますが、もし原爆投下が無かったら、8月15日に玉音放送は流れてなかったことは間違いない。色々な資料が残っていますが、原爆投下ってのが一気に終戦工作を進ませたことは間違いない。というか玉音放送でわざわざ言ってますからね、「残虐なる爆弾を使用ししきりに無辜を殺傷し」被害ははかりしれない、これ以上継戦したら日本民族の滅亡だし人類文明をも破却してしまう、とかなんとか言ってます。要は原爆なんてもん落とされたら降伏するしかないんだわかってくれよ、と国民に言っているわけです。

 原爆投下が中止されていた場合、いつ終戦したかはわからないけど、延びた終戦までの間にいくらかの連合国兵が戦死したことは間違いないわけで、原爆によって救われた命(そこには日本人の命も入ってます)は間違いなくあったわけです。

 そもそもミッドウェー海戦の惨敗、ガダルカナル島の再占領後の全ての戦いが「どうみても負けているのに負けを認められない日本」を諦めさせるための作戦だったようなものです。2年以上負け続けた上でまだ本土決戦とかほざいてる狂った国家に対しては、無意味な殺戮をしてやることも仕方なかったと思う。

 まあ広島長崎のことはいったん置いておきましょう。敗戦国として、被曝国として冷静な歴史分析以上に原爆絶対反対の意見でまとまることには意義があったと思いますから。

 ただ、現在もすぐ近くで核の正義があると思うのです。それは北朝鮮です。

 現在、コロナ対応の失敗で、もともと不安定だったトランプ政権の支持率がふらふらになっていて、同じくコロナ対応の不足が言われる中国習近平政権と「米中対立」を深めることで支持を保とうとしています。

 どう見ても茶番ですが、公使館をめぐる対立は色々な人に波及しています。

 この流れでいくと、かつて「テロへの報復を実行して見せる」という目的だけでイラク戦争を起こしたときのようにならないか、と思われるのは全くおかしくないでしょう。

 さすがに中国と直接戦争はできないでしょうから、そうすると中国サイドとして一番狙われやすそうなのはダントツで北朝鮮です。

 そこでもし「北朝鮮核武装していなかったら?」と考えると、トランプ政権による攻撃のリスクはもっともっと高かったことでしょう。

 それに北朝鮮は今までも核開発をめぐって色々な譲歩をアメリカ韓国にさせてきました。

 要するに、どう考えても核による平和、抑止力はあります。抑止力論全盛の冷戦期よりも今の方があるかもしれません。

 それでも!大量殺戮を可能とする兵器は許されざる禁忌だと思います。

 だから考えるべきは現状有効な核武装という手段を無効な手段に変えよう、ということで、そのように局面を変えようとすることが日本の役目なんじゃないですか。現在の「核は絶対悪でいけない」というスタンスではそういう本質的な議論になりづらいと思います。

 あと、言うまでもないことですが、日本政府の「核はいけないと思うけどアメリカ様の核保有には反対しない」というスタンスは絶対悪論以下の最悪の意見(というか無意見)です。本質から最も遠い。

 北朝鮮は「非核化を求めるならまずアメリカが辞めろ」と言っていて、それは筋が通っていると思います。まずは米帝の非核化を求めていきたい……がトランプは小型核の開発をさせているこの現状よ。

 

 ごちゃごちゃ言ったけど俺は戦争無くしたいという小学生みたいな思いをちゃんと持ち続けたいんだ……。軍事と戦争に使われる金でコミティアやろうよ。

 コミティアなくなったのがとても悲しい。バイトの面接に行き忘れるし、最悪だ…。