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檜山バターン(@hiyanimation)のブログです。note(https://note.com/batahiya)では別の記事を載せていてそっちの方がちゃんとしてます。このはてなブログは知人に読まれることを想定していることが多いです。

「100日後に死ぬワニ」の桜について

 「100日後に死ぬワニ」100日目の桜の描写について思うことを書きます。

 まず100日目の回自体の解釈について。

 読後最初の記憶を思い出すとTLでワニが「あっさり死んだ」みたいに言っている人が多くてびっくりしたんだよな。めっちゃ豪勢に死んだじゃねえか。

 最初俺は雑にしか読んでなくて「ヒヨコを助けて死んだ」ということに確信をもってなかったんだけど、それでもあの桜の描写は十二分にドラマティックすぎるだろうと思った。

 それで読み直したら3p目2コマ目のワニの体にスピード線ついてるからこれ確定でヒヨコ助けてんじゃんと気づいた。

 人命を助けて死ぬってとても英雄的な「美しい死」に他ならないじゃないですか。

 「美しい死」なんて幻想を現代的日常に接続させちゃあいかんでしょ!

ということがまずある。そんなもんはイーハトーブにしか無い。

 その上で俺は桜の使い方に衝撃を受けてしまった。

 


 桜というものはたしかにですね、ドラマティックな滅びの印象をもって日本の伝統のなかで歌われてきたものではありますよ。

 ただ、「奉公して死ぬ」ということと桜を結びつけたのはおそらく明治以降の日本軍、それもとくに昭和期の日本軍だけなはずです。だから「ワニ」における桜は、本質的に太平洋戦争時の軍歌の中の桜なんです。

 
 俺自身も理解しきっていないわかりづらい話なると思うのですが説明します。

 日本の文芸の歴史において桜が象徴するのは儚い世界そのものなんです。そもそも前近代には自我という概念があんまり無いので自分の命と世界というのは不可分に繋がっていたということもあるのですが、桜は誰かの命を象徴するような小さなものではなく、世界そのものの悲しみの象徴なんですよ。

古今和歌集の有名な歌に


のこりなくちるぞめでたき桜花ありて世の中はての憂ければ

 
という歌があります(読み人知らず)

「はての」は「果ての」、つまり「のこらず散るから桜は美しい、どうせ世界はあっても終着点は嫌な苦しいものなのだから」みたいな意味ですね。「世の中」には世界のほかに世間という意味もあるんで「世の中」の意味を人間関係程度と捉えて読むこともできるかもしれませんが、とにかく桜はあくまでも人間をとりまく世界の象徴なことがわかります。

 それから300年くらいたった鎌倉時代の天才、源実朝の歌に

 
うつせみの世は夢なれや桜花咲いては散りぬあはれいつまで

 
という歌があります。現代語訳すると「空虚な世界は夢なのだろうか、だから桜の花も咲いたかと思うと散ってしまう、ああいつまで……」みたいな感じで、この「いつまで」には間違いなく自分の命のことが念頭にあります。ただその命というのは桜を見て想像されたことであって直接言及されてはいません。上の句において桜と並ぶのはうつせみの世、つまりこの世自体なのです。

 
 次に「他者のための死」のあり方の変化について説明します。たしかに「平家物語」や「太平記」には大義のために命を捨てるという美学が描かれるんですが、それはそういう身分に生まれた必然の宿命に、美を見出したものなんですね。百姓に生まれた人間が細々と農業をやって生きることに疑問を持たないように、武士に生まれた人間は疑いをもたずにその死を受け入れたようです。実際その運命から逃れることはまあ出家するとかしない限りできなかったので、受け入れざるを得ないものでした。(宿命を受け入れながらもやりきれない悲しみを言葉にしようというのが中古までの日本文学のテーマだと思います。)

 そういう運命がいわば実在した時代の宿命論が、花に例えられるのは一つの道理なわけで、ポエティックな感傷とは別次元の痛切さがあったわけです。

 
 さて、それと太平洋戦争中の死がどう違うかというと、そうした絶対不可避の宿命ではなく一個の人間の選択として大義のための死を受け入れさせたところにあります。特攻隊でさえ形式上は志願制をとりました。それはつまり「望んで天皇のために死ぬ」という、国民国家の近代市民的プロセスを踏ませたということで、そこに宿命論的な美しさは存在しないし、「個」を内包させてしまう巨大な「全体」があるという世界観は、日本文学の伝統のなかで桜がもっていた「世界そのものの儚さ」というテーマとはもっとも遠いものでしょう。
 それに無理矢理桜というものを意味合いを歪めたうえでくっつけたのが太平洋戦争における桜の使われ方だったわけです。

 


ようやくワニの話に戻って参りますと、このワニの、自我をもって毎日の生き方を選択して生きる現代的な個人の日常に、前近代的な「美しい死」を接続させた、って点がまず太平洋戦争の志願兵の死に方で、そしてそれを飾るものとして桜を用いた、ということはまさに、戦時中のプロパガンダの桜の使い方にほかならないんだ!ということが私の主張で、そういうものを無自覚に反復して享受しているんじゃないかと思います。

 

秋葉原のメイドカフェに行った

 友達のHAIZAI AUDIO、タナカ(tnhr)とメイドカフェに行った。
  午前中神保町で古本屋をめぐり、よい古典の本を手に入れて、その話も書きたいのだが、それは置いておいて秋葉原メイドカフェに行った話をしよう。

 久々に家を出たことと、いい本を買えたことと、初春の陽気が重なってバカのテンションになっていた俺は、メイドカチューシャ(家にあった)を装備して廃材氏に会うほどの浮かれっぷりで、さすがにダダ滑りしたらどうしようと焦ったが二人とも相応に浮かれていたので良かった。
 我々はいざメイドカフェ比叡山とも呼ばれるめいどりーみん秋葉原1号店に向かった。タナカ以外はメイドカフェ初めてなので王道を往くめいどりーみんに…という感じだ。
 客引きのメイドの案内で上がると何かをはきちがえたファミレスのような、微妙に異様な空間があり、そこにメイドが3人ほどいた。
 メイドさんに案内される。
「私が『お帰りなさいませご主人様』と言いますのでみなさんは『ただいま』と言ってください」などという笑点のような事務的手続きのあと実際にやってみる。
「お帰りなさいませご主人様」
「「「ただいま」」」
ぎこちなく返事するデカいオタク三人。*1しかしその瞬間コレは楽しいヤツだと理解させられてしまったね。

f:id:fuckinhiyama:20200318212833j:image俺(左)とHAIZAI AUDIO(右),楽しそうである。

 そのあとも飲み物におまじないと称して「ニャンニャン」とやらされたり、ほかの客の儀式をクラップヨァヘンズで盛り上げさせられたりと、参加型儀式(茶番とも言う)には事欠かず、大変楽しかった。メイドカフェに行くのはHAIZAIさんの発案だったのだがHAIZAIさんが一番照れていてかわいかった。
 ここで店内の様子に触れておくと自分たち以外の客は3組くらいで、常駐するメイドも3人ほど。店内は広くないのでガラガラということはなかったが、客の大半は完全に場に呑まれている外国人観光客で、なおかつ店内はほの暗く、空間としては完全に“静”であった。一歩間違れば興が冷めそうだが、そんな空間でオムライスに向かって「おいしくな〜れニャンニャンっ」と振り付きでやることを強いられる、その精神的に圧倒的な“動”。この動と静のバランスを美と呼ぶのでしょう。

 そんなこんなで宴もたけなわ……といったところで「これからライブがはじまります」と放送が。
 いったいどんなものが……とワクワクする我々。店の端っこにあったお立ち台に照明が絞られ、ミラーボールは(ひかえめに)周りだし、なぜか配られたサイリウムが赤く輝く。
「いい時に来ましたね」
 田中が言った。その頃ちょうど食事が来てしまってご飯を食べるタイミングを逸したことを差し引けば、まさに良い時に我々は入店したものだ、そう思った。
 さてライブと思いきや、なぜかくじ引きをさせられ(伏線)、田中とHAIZAI氏は缶バッジを、俺は萌緑茶(ただの緑茶である)を当てた。
 そしてようやくライブがはじまる!
 鳴り出す校内放送のような音質の「恋するフォーチュンクッキー(原曲)」!!
 お立ち台でキレの悪い踊りを踊るメイド!!!
 そう!!!!ライブとは流したCDに合わせてメイドが手狭なお立ち台で細々と踊るのをサイリウム振って応援する、というイベントだったのだ!
「おお……なるほどね」
 拍子抜け感はめちゃくちゃあるがこれはこれで面白いものである。ともがらをふりさけ見れば同じような感情であることが伺えた。

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 無いリズム感でサイリウムを振り続けた。僕が「恋するフォーチュンクッキー」をフルで聴いたのは初めてだったのではないだろうか。サイリウムを振り終えた私には一つの達成があった。
 そしたらなんとまた別の曲が流れ出した!初めて聞く曲だったが聞き覚えなら無限にありそうなオタク曲*2
「とほほ〜、一曲で終わりじゃなかったのか〜!」
 しょうもなくオチてるのに曲は終わらない。こういうとき辛いのは自分のダレより他者のダレ。アジア系の観光客のお兄さんは完全に興味を失ってスマホをいじっている。俺は空間に対する客観的認識を持たないためにサイリウムを振ることに意識を集中させのりきった。
 そして迎えた「ラストはみんな知ってるハレ晴れユカイ〜」とのおことば。
 良かった、ついに終わる。それにハレ晴れユカイ(オタクはハルヒが好き)。
 だがそもそも「ハレ晴れユカイ」とはキモオタが歩行者天国で踊れるほどの簡単ダンスで、みんなで踊ることに意味があるものです。つまり、メイドが一人でハレ晴れユカイを踊っている光景とは死ぬほど退屈な光景にほかならなかった。僕にはメイドさんを性的な目で見ることもできないしね。
 耐えかねて「貴重な経験だわさねえ」などと達観ぶって言ってしまったが言わなかった方が悟りに近づけたかもしれない。

 

 話は前後するが頼んだオムライスに絵を描いてもらった。メイドカフェといったらこれだよね。
 僕は河童が好きなので河童を描いてもらうことにした。
「カッパ?!」と驚かれたので河童愛好家である俺は「日本の妖怪で皿があるものです知らないのですか」と早口でマンスプレイニングした。結果、大変かわいいカッパの絵を描いてもらった。f:id:fuckinhiyama:20200318213156j:image嬉しい。僕が今朝描いたカッパも見て。https://www.pixiv.net/artworks/80193908

 味はみなさんのご想像通りです。
 
我々が頼んだセットにはチェキが含まれており、チェキの撮影とあいなった。
 地下アイドル百戦錬磨のタナカが「あろま」という源氏名のメイドとプリパラのアロマゲドンのポーズをするという百点満点の解答を見せた。俺も頑張ってポーズを思案した結果、さらざんまいのポーズをしてもらうことにした。河童が好きなので……(無理筋)
 そしてこれ。

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 メイドに取り憑いた亡霊のように写っているのが僕です。
 まあそういうわけでたいへん楽しかったなあ……と伝票を渡されて気づく。サイリウム代660円とくじ引き代660円が足されている!合計で4500円くらいになってしまった…まあいい経験だったと思おう。

 

 そのあとは胃もたれを治しに雑草を食う狸のごとく秋葉原を徘徊した。
 そんな繁華街の喧騒の中で、君に出逢った‪——‬。

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 彼女はまんだらけの100円コーナーにいた。本当はHAIZAIさんが買うはずだったんだけど「(出来の悪さは良いが)顔が不快すぎるので買えない」と言われたので俺が買った。2020年はルッキズムによる差別を許さないのでよろしく。

 もう一柱綾波レイのらうたげなフィギュア買ったんだけどなんかベタベタしてて取り出したくないから上げなくていいか。

 

 まあ総括するとたのしかったですよ。メイドカフェはめちゃくちゃ面白い体験だったし、秋葉原はいつも通り楽しいスポットだった。ヌルい風俗みたいなんだったらどうしようとか思ってたけど。クッソヌルいテーマパークでしたよ。良いね。

 二度目はなさそう、ってこともなく、メイドリーミンはもういいけどコンセプトカフェなる地下アイドルとの中間みたいなところには行ってみたいと思えた。

 じゃあ本題、古典文学最狂作品である蜻蛉日記の話を……と思ったがスマホの電池が無いのでここまでにしとうございます。

*1:平均身長180cmいくのではないかと思われる

*2:その後調べたところどうやらめいどりーみんオリジナル曲らしい

コミティア131「契約」全文と解説

コミティア131で売った漫画を載せます。わかりづらい用語とかに解説を付けました。

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 触手は自己による自己愛の象徴であり、宗教による承認と対になる存在です。しかし仮想上の存在を利用した承認という点では神と同じ限界点を持っています。

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 初聖体の拝領とはキリストが最後の晩餐でパンを「わたしの体である」、ぶどう酒を「わたしの血」であるといって弟子たちに与えたことに由来する儀式です。

 イエスが既存ユダヤ教勢力を改革すべく戦った末に裁判にかけられて死刑になるその直前のエピソードで、これから死ぬイエスの身体を基礎的な食物にたとえたわけです。それはすなわちイエスの死が神と人の契約(新約)になることの宣言でした。

 キリスト教とはモーセが神とユダヤ民族のあいだに交わした旧約を、メシアであるイエスの死と復活による新約が更新したと信じることが中核にある宗教なので、重要な儀式であり、この作品の「犠牲」というテーマの一つの軸になります。

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 写真の人物は内村鑑三です。理由は特にない。

 ここでの「神の国」というのは神様が住んでいる国という意味ではなく新約聖書においてイエスが預言した、世界が終わったあとに神に選ばれた人間がいける世界のことで、つまり天国のことを指す用語です。天使と悪魔が同一であるこの作中世界的には天国であり煉獄であり地獄であるのが神の国である、と考えていますがあまり重要ではないです。主人公おめがは終末が来る前の準備期間中の神の国に来てしまった~というのがここでの筋書きです。

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 ここでの天国、地獄は善と悪の概念的な用語です。

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 ここらへん何言ってるんですかね?人類の救済というものはスケールの飛躍した究極の欲望ではないかと思います。

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 ソロモン♡はユダヤ人の証拠として書く。

 ストーリーを解説するとおめがは疑似的にイエス磔刑のために十字架をもって運ばされた「苦難の道」の場面を疑似体験させられたわけです。本作品は「ヨハネによる福音書」をベースにしています。なので十字架をシモンが代わるエピソードとかエリヤを呼んでると勘違いされる話はないです。(勘違い話は本当はねじこみたかったけど忘れた)

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「渇く」はヨハネによる福音書に出てくる最後の台詞ですね。どういう意味なんだ?

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 コリントの信徒への手紙からとったはずなんだけど箇所を忘れた。

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 読んでいただけばわかるように「死ではなく生による契約」という結論的なワードが、実質的には犠牲を通じた契約にすぎない、という言葉によって一気にぶっこわされてしまった。

 書きながら「結局触手も消えるから死んでね?」と気づいて混乱しながら終わりそうだったシナリオをこわしてしまった。コミティア当日の9時頃のことだった。

 「犠牲を通じた変革」という世界を支配する概念に「犠牲の否定」というアンチテーゼをかがげた私という作者が負けた、そういう作品ですね……。

 

 印刷したものにはあとがきがありますが、それは8ページくらい書き終わった段階で現実逃避で書いたもの(それはあとがきではない)なので読んでいただく価値はないです。あとがきでは三位一体がどうのこうの言ってますが本編だと触れることなかったですしね。

 セカイ系キリスト教に通じる「自分を愛してくれる存在を犠牲にした生の承認」という概念を打ち壊す作品を作りたかったのですが、自己による愛では勝てなかったよ……

 

「まんが日本絵巻」の台本を買った

まんが日本絵巻というアニメの実際に使用されていた台本が雑に売られていたので入手した。

いっぱいあったけど四冊だけ買った(資料保全の観点からすると良くない気がする)

1話Bパート

「母恋し安寿と厨子王」録音台本

3話Bパート

平敦盛」脚本 (放送時のタイトルは「笛の音悲し平敦盛」)

「笛の音悲し平敦盛」録音台本

5話Bパート

山田長政」(放送時のタイトルは「象に乗った英雄 山田長政」)脚本

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台本にはタイトルの横に何も書かれていないものと「収録用台本」と書かれているものがあり、前者が映像制作のためのたたき台となる脚本で後者がアフレコ用のものみたいだ。正式な呼び方わからないのでこの記事中では脚本、台本と呼び分けます。

私はこのアニメ見たことがないのでウィキペディアの情報と照らし合わせながらわかった点をあげていく。

これ以外にも十冊くらい売っていて録音用台本のほとんどに「石黒」もしくは「石黒様」と書いてあった。

これは総監督の石黒昇*1(1938-2012)のもので間違いないと思う。

作品の多くの話数に深く関わっていて石黒とつく人物は彼しか該当しないはずだ。

 

それぞれについて気づいた点

1話「母恋し厨子王」

書き込みは全く無い。

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脚本担当が中原朗とあるがウィキペディアのリストだと中原さんが書いたのはAパートだけで、パートのこれは阿井洋平*2氏のはずである。これはどういうことなのだろうか。

 

3話B

脚本の文字の「っ」がことごとく「つ」になっている。旧かな世代の人が書いたのだろうか。

脚本段階だとめちゃくちゃナレーションが多い。それが録音台本ではかなり減ってかわりに人物のセリフが増えて劇っぽくなっている。

そして録音台本にも書き込み、書き換えが多い。

一番重要そうなのはここかな。

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脚本は平家物語の敦盛の翻案で概ね流れは同じだが、敦盛が主人公で、恋人の奈緒という女がいる設定。画像はとうとう平敦盛が首をとられることになって熊谷直実に名を訊かれた場面。

「名乗らなくても首を取って人に見せたら見知っているものがいるはず。はやく首をとれ」と返すセリフが

「名乗るほどのものではない。はやく首をとれ」というものに変わっていて、セリフが大きく減ったために口パクの編集(もしくは撮影)指示変更まで書き込まれています。

「頭1+6Kとってあります

尻から1+17K口とじる」かな?

尻から1+17〜はおそらくカットの終わりから1+17K=41コマ前で口パクを終えるようにしてという意味だと思った。頭〜というのが撮影作業時に撮っておいたノリしろ部分のことかそれとも変更された指示の内容なのか僕にはよくわからないです。

しかしこのセリフの変更はかなり作品の印象を大きく変えるなあと思った。

変更前は原作である平家物語をマイルドにした言い方で、平家の公達としての誇りを見せるセリフだったのに対し、変更後は謙遜しながら死を受け入れる覚悟を見せるセリフになっている。

熊谷の葛藤が仏教的無常観をもとに描かれる平家物語の描写に対して、このアニメでは敦盛とその恋人の奈緒(オリキャラ)を中心に据えた「戦下の恋」みたいな話になっていて、そういうことを考えるとこの変更はとても良いと思える。まあ実際の映像を見てないのでわからないが、最後まで色々考えて作ってるんだねえ(教育番組)。

 

5話B

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本放送時のタイトルは「象に乗った英雄 山田長政」だがこの脚本時点では象に乗るシーンが無いので結構書き換わってそう。

表紙になんか書かれている

8/12 絵こんてup,

かな?ウィキペディアによると11/2に放送したみたいだから3ヶ月切ってる!バンクの使えない作品でそれって大丈夫なのか…?

裏表紙には作中で長政がシャムの女王から渡される「勇者の剣」のデザイン案らしきものが。曲刀は東南アジアじゃないだろ!

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この脚本には落書きがいっぱいある。

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最初は子供の落書きかとか眠かったのかとか思ったけど2枚目の似顔絵で大人が一応描こうとして描いたもんだとわかった。そして良く見てください。これエフェクトじゃないでしょうか?

1枚目の右は爆炎とかに見えるし左は飛行機とかに見える。かどうかはわからないですが、私が言いたいのはエフェクトアニメーターは落書きすらエフェクトっぽいということです!

石黒昇さんと言えばエフェクト系アニメーションの先駆けとされる人ですがこの回の脚本にエフェクトっぽいものは無いので単なる落書きと思われる。

さてこの脚本が使われていたと思われる1977年7-8月初旬と言えば「劇場版宇宙戦艦ヤマト」の公開時期であり、「さらば宇宙戦艦ヤマト

準備期間であります。歴史物やりながら頭の隅でヤマトのエフェクト妄想してたのかとか想像すると楽しいね。

 

総合的な感想としては作品を知るうえでも石黒昇さんの仕事を知る上でもかなり重要な資料たりうるもので、すごいもん拾っちゃったなという印象。少し調べたところ制作会社のワールドテレビジョン潰れてしまったようでそこから流れた可能性がある。そして会社が潰れたということは権利をちゃんと管理するところも消えた訳で、ますますこれは資料価値の高いものなんじゃないかという気がする……。

残りの台本も買ってDVDを買って実際の映像を見てみようと思います。見たらまた書きたい。

*1:宇宙戦艦ヤマトや1980年版鉄腕アトム超時空要塞マクロスOVA銀河英雄伝説等で監督や共同監督をやった人。僕はメガゾーンが好きです。

*2:検索したら脚本家阿井渉介氏が「刑事犬カール」で阿井洋平と誤記されたというサイトにあたった。http://wandaba.html.xdomain.jp/page5.html実は別名として名乗ってたのだろうか。

2019年度武蔵美卒制展に行った

 去年中退した武蔵美の卒展に行った。親しくさせていただいた油絵科の人々が概ねこの学年だったことと、自分が高校卒業から四年ということで、気持ち的に近さがあったので今までにない気分で観に行った。

 「みんな俺と同じように無為な期間を過ごしてしまったんだね……」となんとも言えない気分になる作品もあったが、凄い作品もあった。

 

 一番印象に残ったのは瀧内彩里さんの作品(タイトル忘れました)だった。

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 俺の撮った写真は全然伝わらないのでちゃんと撮っていた収集家の方のツイート→https://twitter.com/mujina1985/status/1218340367415664640?s=21

 

 僕は肯定と否定の両方を感じられる表現*1を成し遂げた作品に力を感じるのですが、この作品は肯定にも否定にグッと踏み込むことが出来ていて本当の凄いなと思った。*2

 改元とか諸々の日本の浮かれた様相を戯画化した空間があって、それ自体も面白いんですけど、特にこのLGBTQの化身みたいなのが凄いですね。「虹色に塗られた、胸と股間が膨らんだ謎の存在」とか4chanオルタナ右翼民主党を叩くために描くようなデザインですよ!そういう暴力的な造形物を祭事を戯画化した空間のインスタレーションに入れることで肯定と否定の両義性を出すことに成功していて、訴求力が凄く高い作品だと思いました。

 

他によかった作品

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宮城彩さんという方の作品。めちゃくちゃかっこよかった。宗教的なおどろおどろしさのある風景に、バグったように増殖したキャラ的表現が和紙に描かれて貼られている。和紙や箔のレイヤー感が重厚さを産んでいて近くで見ると漫画的というより絵巻物の戦乱描写のような凄みがある。

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漫画的表現の記号性を活用した作品は数あるが僕が今まで見たなかでもっともカッコいい活用の仕方だとおもった。ヤラレターってなった。

 

 以上二つが見たあとも残って色々思考が喚起された末に「俺もあんな凄さを作りたい」と思う作品でした。

 ほかにも良いものがあったんだけど頭痛がやばいのでとりあえず終えます。インフルじゃないことを祈る。

 

 

*1:どっちもどっちではなく、どちらでもある、ありうる表現のことです。いつかちゃんと言語化したい

*2:そもそもこの作品について考えることで自分は両義性に価値を置いているんだ!と気づいた

「追葬パラレル」没ページ

途中まで描いたけどダメになったページを載せます。自分が見返す用だけど、読んだ方なら見て面白がっていただけるかも。

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3ページ目の初稿、コマを重層に配置して「影-手-照明」を描いて影絵の全体像を見せて表現できないかというアイデアがあった。

絵が雑だし文もなんか違うなと思って没にして書き直したのがこちら↓

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結局セリフは何言えばいいかわからんかったが絵は良くなった。

 

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10ページ目の没版。女王がバーンって出る様子を大ゴマで演出したかった……。二回くらい描きなおそうとしたが、画力不足と時間不足で結局小ゴマにして流す結果になった。

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ラストページの没版。言いたいことを言えるような感じもあったがこのまま行くと自殺&殺人奨励マンガになっちまうぞ!って気づいてやめて描き直した。どういう意味かというと人間の苦しみへの共感が漫画を描くことで増幅されて「みんな死ね」みたいな意味までいってしまいかねなかった……ということですね。

「これ後半意味わかんなかったよ……」みたいな感想を遠慮がちにいただくたびに(これでよかったのだ……作者の言いたいことなど聞こえてはいけなかったのだ……)人知れず世界を救ったヒーローのような気持ちになる。まあ僕も読んで意味わからなかったですしね。

今回はキャラのありがたみを思い知った。キャラなんて取ってつけた商業性でしかねえズラ!みたいなこと思っていたけど作者が狂うのでキャラが必要なのだ。創作という危険な行為をする上での安定剤だな。

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表紙の没ラフ。クソ絵が上手い友人の劣化コピーみたいな絵柄になってしまったので没った。

ネーム無しで描くのは没ページが増える難点があるなあ。次回は一部だけでもネームを描きます。

 

おまけ:印刷で全然出なかった(細かいグラデーションが死んだ)ページ

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後頭部の描写は会田誠の「あぜ道」を真似た。

アニメ作画パクリについてぼんやり思い浮かぶこと

 

 「スティーブンユニバース」とかの作画をPlaystationのプロモアニメがパクっていた件について……

https://twitter.com/ianjq/status/1202124686185787393

 見ようとしたときには公開停止していたのでどのくらいヤバイのかわからない。

 比較だけ見た感じだとアウトだという意見に反対はできない。ただ、穏便に済んでほしい……と思う。なぜならこれが権利問題として展開されたところでアニメーターが得をしないと思う。

 まずこの件はひとり悪いアニメーターもしくは監督がいましたよ、ということではないと思う。今までアニメーションの作画の模倣はけっこうな範囲で許されてきたし会社によって推奨された例もあった。権利意識があいまいになっていたためにこういう事件が起きたのではないか。(しかしその曖昧さが影響をすぐだせるいい環境だったんじゃないかという気がする)

 


 とりあえず思い浮かぶ例を出していきます。

 「ガンダムⅢめぐりあい宇宙」にはガンダムにやられたドムがすごいエフェクトを出して爆発するシーンがあるが、これはテレビ版32話で使われたシーンを描き直したものだ。多分作画監督安彦良和板野一郎が描き直したものだと思うが、元になったシーンを描いたのは鍋島修だ(金田伊功って書かれたウェブサイトを見た記憶もあるがとりあえず鍋島さんということで進めます)。

 しかし鍋島さんは劇場版には不参加で給料もなく、クレジットもされていない。作品のために作画された画像の利用権はサンライズ(日本サンライズ)が得ているから描き直そうがなにしようが問題は無く、その作画の手柄は描き直した者のもの、ということになるのだろう。著作権法的にかなり危ういと思う。使用に関するちゃんとした取り決めがあったとは考えにくいし今も無いんじゃないか。

 


 そして有名どころだとやはりディズニーのトレス。これは比較動画がたくさん作られているので見てほしい

https://m.youtube.com/watch?v=sWKo5veKjVU&hd=1

https://m.youtube.com/watch?v=0MvlipN-Nww

これらの“再利用”はナインオールドメンのウォルフガング・ライザーマンが主導したらしいので、会社公認推奨の模倣だったと言える。*1

 これらも一々元のアニメーターに使用料なんぞ払ってはいないと思う。ちゃんと調べていないので、払っていたケースもあるかもしれないが、1937年の「白雪姫」の作画を1973年の「ロビン・フッド」でトレスしたとき、白雪姫の作画担当*2だったハミルトン・ラスクは死んでいる。そもそも模倣元はライブアクション(またはロトスコープ)した映像なので、原著作者はアニメーター以外に実写の演者も含まれそうでもある。

 


 作画のオリジナリティというのは今まで軽々しく扱われてきた。

 今まで挙げた例は同じ会社の中で作った作品というエクシキューズがあったから、プレステの件とは異質ということはあると思う。だが判断しにくいレベルでの他社作品のパクリは今までもあった。

 例えばアキラの金田バイクがブレーキをかけて止まるシーンのオマージュなどまとめたgifが作られるくらい有名だ。

http://amass.jp/76124/

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 見てわかる通りこのgifには明らかにパロディとしてやっているカットも多い。作画模倣の問題は「パロディ/オマージュとパクリの違いがわからない」という著作権につきものの話にもなる。(そもそもアキラのバイクシーンって「湘南爆走族OVAあたりになんかネタ元なかったっけ?)


 あと金田伊功の作画は7,80年代かなりパクられていた(影響を受けた作画は知られているが単なるトレスとしてもあった)と言われる。当時はデジタルが無いから結果的に丸々のトレスにならず、分析できる人もいなかったために問題が表面化しなかったのではないか。問題にならなかった昔がおかしいのか、問題になる今が行き過ぎなのか判断がわかれそうだが。


 延々と記憶のボケたオタク語りをしてもしょうがないので終える。こうした曖昧な権利感覚が続いてきた結果として、模倣が著作権違反とされたとき、現状では誰が誰の権利を侵害したのかはっきりしないと思う。

 映像作品としての権利は制作会社にあるので、今回ならカートゥーンネットワークソニーを訴えることになるのだろうか。そうなって和解金が支払われた場合、ネタ元の原画を描いたアニメーターに金は払われるのだろうか?現状だと払われないんじゃないかという気がする。法律のことはわからんがミッキーマウスのキャラクター商標をめぐる著作権議論がそんな感じで割れているので可能性はあると思う。*3

 まとめると、アニメ作画の権利意識はゆるいものとして進んできたし権利の判断も難しく、侵害された著作物の作り手であるアニメーターがなんの得も得られない可能性もある。そもそも問題化することでオマージュや影響を表現しづらくなることも懸念される。

 今回の件について、そもそも見られていない俺にはどう判断されるべきかはわからないが、該当シーンを自主的に取り下げ作り直すことで納め、権利問題には発展しない……という筋書きになってほしい。それがアニメーターにとって、ひいてはアニメファンにとって一番マシな結果になると思うからだ。

 

 

 

 

 

 

*1:http://screenprism.com/insights/article/has-disney-really-recycled-animations-in-their-feature-films

*2:ディズニーではキャラごとに作画監督がいるので該当シーンのレイアウトをハミルトンが描いた可能性は高い

*3:https://www.kottolaw.com/column/190913.html