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檜山バターン(@hiyanimation)のブログです。note(https://note.com/batahiya)では別の記事を載せていてそっちの方がちゃんとしてます。このはてなブログは知人に読まれることを想定していることが多いです。

優生学とかってさ…

誤記修正:最初りぼんについてちゃおと間違えてました。(修正済)

 

 優生学とか命の選別とかがにわかにブームですね。

 自分にはどうにもできないパンデミックのなかで自分がマスの中の一個体でしかない、という感覚が発生して、そういう発想になる人が多いのかな。憶測ですが無関係ではないんじゃないか。

 

 まずはれいわ新撰組の大西つねき候補が「長生きする高齢者」について「命の選別が政治家の役目」とか言ったこと。それに対し少なくない支持者が擁護したこと。

 そしてALS患者にたいする嘱託殺人。次いで維新などの政治家がこの件にかこつけて尊厳死をーなどと言ったこと。

 さらにRADWINPSの野田洋次郎氏がすごい若者には国がしかるべき配偶者をあてがえみたいなことをツイートしたこと。それを数多の人が優生学だと批判したこと。それに対して「冗談ですよ」などとどうしようも無い逃げ方をしたこと。

 

 あとちょっとずれるけど「りぼん」の付録がゼクシィとのコラボでの「なんちゃって婚姻届」で、批判を招いたことも近い現象な気がするがこれは後述。

 

 ※これから最初に挙げた三つの事例をなさしめた優生思想という考えについて言及する。個別事例によっては該当しないこともあるかもしれないがその思想の先にあることは同じだと思う。

 私はこの手の優生思想は本当に嫌いで憎悪している。優生学が反倫理的であることも、実際のところ非科学的な妄想である(人類のために役立たない)という事実も理由ではあるが、私個人が嫌なのは別なところな気がする。

 まず優生学とか命の選別とかってのは殺意の一種である。「〇〇な奴は死ねばいいのに」という感覚である。いや、死ねと言ってるわけじゃないんです、不要な存在は将来に子種を残すなとか早めに死んでくれと言っているだけです、という向きもあるが、人間の生きる上での行動を縛ろうとする時点で本質的に大差ないし、社会による生の制限は必ず死と結びつく。

 しかし殺意が許せないというわけではない。私も殺意をもって生きている。世の中は不愉快な人間であふれているとも思うし、漠然と人間は多すぎると思っていつも生きていて、そのなみなみならぬ死の欲望は世人の追随を許さないくらいだと思っている。

 だからパンピー面した人々もみんな客体を持たない殺意のはけ口を求めているんだな〜と思って、ほんのかすかにシンパシーというか、近さも感じるんですよね。俺は地味な口減らしの要領で社会に強制される死や生の制限なんかにははなから賛同できないし、実際に弱者がいくらか死んだところで俺の人類への怨みは消えないが。

 さて、その殺意を優生思想という名のナニカに包んで語る当人には、恐ろしいことにその自覚が無いらしい。

 だから「老人は社会のゴミ」みたいな発言を繰り返していた人間による嘱託殺人を美談化したり、放言した優生思想を「冗談」で済ませられるのだろう。

 なんでそんなことが可能かというと、選別の過程で自分が切り捨てられる側になるということを想像できないからなようだ。

 その傲慢さが許せないし、これだから大衆は世界の何よりも恐ろしい悪なんだと思う。殺意じゃないフリして殺意をばら撒くなんて外道の極みだ。もちろんわかりやすく殺意をふりまけばいいってことではないですよ。

 そもそも誰かの生きる権利を潰してまでも生きるべき人間などいるのか?俺はいないと思う。せっかく作った天賦人権という概念を、社会という名の多数派の快楽のために捨てるような生物なら、人類まとめてさっさと滅んだ方が良い。その方がきっと地球環境の多様化にも貢献できて良い。

 人間社会は生きるにはあまりにも苦しいので死にたくなるのも死んでほしくなるのも自然な感情だと思う。だがそれは自然ゆえにどうしようもない感情なのだ。なんとか他者の気持ちや生存を想像して、やっていくしかないんじゃないか。(想像力以外に頼れるものがあったら教えてほしい。マジで)

 それを無理矢理都合よく解釈しようとしたりするから平然と優生思想とかに流れるんだろう。深淵を安全なポジションから覗こうとして、よりヤバい深淵に覗かれちゃってるんだ。やっぱズルはよくないね。

 そういえば最初に書いた通り優生学というのは実際公益も無いらしい。ホロコーストやら人種差別制度なんかの研究でかなり明確になっているそうで、それでも復活するってことはやはり人間の潜めた殺意が巻き起こすんだなと思う。

 

 そして優生思想を成り立たせるもう一つの原因は「あるべき人間像」という幻想だろう。人間のあり様には良し悪しがあるという幻想。病人や障害者は悪。配偶者を持てない(自由意思でもたないのかなど知らない)人間は悪。同性愛者も悪、だったけど今は特殊ポジション扱いかも。無職は悪。貧困も悪…などなど。

 根底にこういう価値観があるから優生思想や命の選別が成り立つのだ。野田洋次郎さん的には天才野球選手と天才子役と天才スケーターがその価値観の中で最も良とされるわけですね。ははは……(ここが一番やばくないか?!)

 古代世界では病気は罪の証、あるいは前世の罪と考えられたが、現代も個々人の倫理だとそう変わらないようだ。

 自己、他者を見る上で各々の価値観があるのは当然だが、それを一般に適用できる絶対なものとする傲慢な思考が最悪な思想を生む。

 さてそこで最初に書いた「りぼん」の話が出てくる。女子小学生にとって支配的メディアである雑誌がキラキラした嘘婚姻届を付録としてつけることは一つの価値観を絶対のものと錯覚させるということで、その批判に私も同意する。

 

 二つのポイントから結論的なものを導くと、優生思想とかにハマるのは自分の価値観を自分の中に築けなかった人間ということになる。

 ちゃんと自分の価値観を持てなかった人間は自分と他者の価値観の境界が曖昧で、「社会における要不要」と「自分の中の負の感情」を溶接してしまう。そして価値観が無いということは自分という存在を確立できていないことでもあるから、選別される命に自分は入らないと無自覚に思ってしまう。それで優生思想という狂った言説に疑問を持たなくなる。そういうメカニズムじゃなかろうか。

 そうならないためには別に変な価値観を持つ必要はなく、ただ自分の見て考えることと他者の違いに敏感になればいいだけだろう。要は想像力の欠如が問題ってことです。

 

 

 などと語ったところで俺も誰も彼も「死ね」って気持ちを抱えて生きている点で等しく最悪でどうしようもない存在で、それがいつ暴走するかわかんねえから、ふりかざす側としても全く他人事じゃないし、俺のごとき高卒無職左翼の性倒錯者にはいつ「生きる資格無し」の烙印が飛んでくるかわからんから本当に怖いものである。

 

 最後に、私の「殺意」を自分なりにネタにして描いた漫画があります。今だったらここまであからさまに描かないと思うので閲覧注意だしいろいろクソなのですが、みんな死ねばいいのにという気持ちのときに俺はこういうスタンスでやってます、という例として貼るべきな気がした。

https://twitter.com/hiyanimation/status/1144170309353738241?s=21

 

 ちなみに最後から2つめのコマにうつっているのは国会議員バッジで(絵が下手)、つまりそれまで権力者の代わりに弱者を殺させていた人間こそ真の権力者だったというオチです。