不可能性、涙
今日はファミレスで漫画を書いたのですが、途中から涙が出てきました。それで泣きながら漫画を書きました(なにやってんですかね)。それは漫画の物語、登場人物に入れ込みすぎたからだろう、と原因の推測はつきました。でも、なぜ涙が出るのか直接的な理由はわからなかった。ましかし、これはどうも尋常ではないぞと思いました。
ということでもやもやした考えをアウトプットしてみよう!
まえに、人間は(あるいは生命は)「できないこと」によって形づくられるのだと考えた。人間はできないことだらけなので、個人の成長や特質は「できること」ベースで考えられるけど、実際は、手に入らなかったものが人間を作るのだと思います。
「挫折や失敗が人間を作る」などというレベルではなく、人の意思は全て、不可能な何かに向けられているわけです。飢えや疲れは、その場では克服が不可能だから、食べたいとか寝たいとか欲求が発生するんだ。逆に心臓の拍動への意志を持つことはほぼない。明瞭な意識を持っている状態で、心臓が止まっているという状態はまずないからだ。(心臓が止まるという不可能性を仮想した上で止まらないでと願うことは可能)
全ての根源が不可能性だから、不可能とは関係なさそうに見える日常の全ての感情も不可能に対する方向性をもっている。
言い方を変えれば「コントロールできない何か」が人間の感情を、人間を作っているのではないか。お金が人を支配するのは、多くの人にとってコントロールしがたいものだからかもしれない。
で、それでいくと「コントロールできない、不可能な何か」の集合体が世界なのだろう。
その人にとってあずかり知らぬどうでもいいことは、なんの不可能感も与えてこないので、それは世界に存在しないのだ。
この考え方で言うと、人間が重力を実感できるようになったのは、宇宙が今の形になったときでも、ニュートンが引力を発券したときでもなく、人が重力の異なる空間を想像できるようになったときである。それまでは重力ではなく自己の重みでしかない。
遠い大陸の貧困が自分につながっていてそれがもたらす、なんらかの不可能性に気付いた瞬間、それは明確に世界に存在するようになるのではないか。逆に、認知しない限り、隣り合う人々の苦しみさえ存在しない。
人間の主体的な思索とは、不可能性を知り広げていくことで、逆説的に自己を掘り下げることかもしれない。よくわかんないけど。その苦しみが、私を不可能の深淵、死へと導いていく感じがする。
人間に不可能を与えたのはおそらく生である。死者に不可能性はない。なにもできないのだから不可能という概念が無いのだ。
いつか死に至るという宿命は、人間が行える全ての行為を「期限付きの可能=条件つきの不可能」として規定する。
私が私を心配するほど苦しんだのは、生くることが抱えた膨大な不可能を直視しすぎたからかもしれない。
神や祈りといった神秘は、不可能性を直接摂取せずに止揚、もしくは迂回するためのものだ。
そして涙は、涙を流すという動作(=可能の表現)を行なうことで、不可能に押しつぶされそうな人間の精神を、人間の肉体がフォローする現象なのかもしれない。
涙の美しさは不可能性をにじませる神秘の光ということになるのかもしれない
だから不可能性に神々しい光をまとわせるべきかもしれない。