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檜山バターン(@hiyanimation)のブログです。note(https://note.com/batahiya)では別の記事を載せていてそっちの方がちゃんとしてます。このはてなブログは知人に読まれることを想定していることが多いです。

さらざんまい最終話の考察と感想

さらざんまい 、最終話で提示されたテーマに対する考察と感想


全話見た人向けの文章で、特に11話について語ります。


さらざんまいには色々な考察、解釈がありますが、

僕の結論は「この作品において確定された時空は存在しない」ということで、それが唯一にして確信できる設定のようです。つまり「何が作中世界において事実か」ということはどうでもよい。

だがそれは作中世界の事象が無意味なのではなく、描かれた相反するように見える要素は全て一つのテーマにつながる、ということです。


さらざんまいの最大テーマは「つながりを求める人間の宿命」です。

欲望と絶望という言葉が対比的に繰り返し出てきました。終盤白ケッピと黒ケッピという存在まで出てきて、まさに対の関係っぽかったですが、並立の関係ではないです。

「つながりを求める欲望が、永遠に満たされることはなく、いつか絶たれて絶望になる」

というのがこの作品で繰り返し示された欲望と絶望の関係です。

要ははじまりとおわりですね。

簡単に言えばまどマギにおける希望と絶望の関係ですね。

つながりを求める欲望が絶望的に潰える流れの例を挙げると

・春河とのつながりのために犯罪まで厭わなかった一稀の欲望は破綻した

・兄とのつながりのために献身をした悠の欲望は、兄の死によって終わった

・レオとマブの互いを求め合う欲望は報われない絶望に至った

クッソしょうもない理由のカパゾンビ達も欲望にさいなまれて絶望に散った人間の戯画ととれます。(燕太の欲望はそこまでわかりやすい道程をたどらなかったのですが「漏洩された未来」において絶望の未来が示されます。)


その「欲望からはじまり絶望におわる」ものの対比として、

「はじまらずおわらず、つながれないもの」というレオマブが歌っていた概念が存在しますが、これは後述。

レオが死ぬ理由がわからないという知人のツイートを見ましたが、「欲望→絶望」が「はじまり→おわり」となる上で、絶望に至って、それを受け入れなかったレオが死ぬのは当然なのです。

脚本上の理由が無くてもテーマ上死なないといけないんです。(そういう作りを許容するかはさておき)


さて、欲望を絶望に変えると思われた元凶であるカワウソは「概念」だと何度も名言され、悪意を持ったシステムではなく、自然の理の記号化であったということが明かされます。

いや、登場人物にとってはどういうものだったかついぞ明確にはわからないのですが、視聴していた我々にとっては、カワウソは思考装置のようなものとしか受け取らざるを得ないのです。

現実において悪役は存在しない。つながりを求める欲望はいずれ絶たれて絶望になっちゃうのだよ、ということを言っているわけです。


そしてその、「つながりを求めたものの宿命」の対になる存在が悠の兄、久慈誓です。

つながりを捨てて悪人として行動した誓はヤクザに撃たれて死んでしまいました。唯一つながりを持っていた悠にも「利用していただけだ」と切り捨てる発言をしてしまう…など

「つながりを捨てて生きた人間もまた絶望になる」ということを表す人物でした。他者に対する欲望を捨てて自分の価値だけを追求した結果、繋がれないものになってしまったということですかね。



つながりの末路がどっちにしろ絶望ならどうすりゃいいんだよ!という問いが生まれそうですがそれに対する答え的なセリフが吾妻サラの口を通して語られました

「忘れないで、喪失の痛みを抱えてもなお、欲望をつなぐものだけが、未来を手にできる」

そして春河(釘宮)が

「(前略)大切な人がいるから、嬉しくなったり悲しくなったりするんだね。そうやって僕らはつながってるんだね」

と応えます。

つながりは壊れて絶望を感じるとしても、つながりの中で頑張って生きろってことですね!まあ、説得力なくはないし、わかるけど……という感じで終わり

と思いきや!この作品はここで終わらなかった!


三年間の刑務所生活を終えた悠が浅草に帰ってくる。しかしもう彼にはなんの繋がりも無かった…

「それがどうしたーっ!」と言って吾妻橋から飛び降りると

さらざんまいのうたコーラスバージョンとともに燕太と一稀が飛び込んできて、

なんだかアップテンポな感じで三人が走り出して、

なぜかレオマブが車夫やってて、

橋に立った三人が映ると「つながりたいから、さらざんまい」というタイトルが出て、

そしてオープニングが流れる!

オープニングが終わったあとの最後のシーンは屋形船の屋根に座って河童姿の三人と「いざ、未来へ‪——‬。」という言葉。


理解しがたい情報の羅列で「は?」という感じですね。当然ここを基点にしたたくさんの解釈、考察があります。

僕は「何が正解ということもなく、匂わされた全ての要素には意味がある」という立場にたって、要素を分析したいと思います。


まず一番ショッキングな死亡説、巷で言われているのは

久慈悠は三年の刑務所生活のあと、帰ってきた浅草の吾妻橋で飛び込み自殺した。燕太と一稀は最終決戦後に死んでいて、死後の世界で3人は再びつながった、という感じですかね

根拠には

・春河の持っていた皿が割れる=死の暗喩

・3年の歳月について、悠しか描かれなかった(2人は描かれなかったのではなく死亡済み)

・飛び込み=入水自殺のイメージ、川=三途の川

・橋の上での「全部のつながりを失った」的なセリフ、もし二人が生きているならそれは兄のことだけを指すことになるが、二人が生きているのにそこまで絶望的なセリフが出るのは不自然

・挿入歌「放課後カッパー」の歌詞がモロ自殺者のはなし


解釈を成り立たせるには十分ですね。さらにレオマブがいることも、霊魂的なものが描かれているものとして説明がつきます。

なお、悠を迎えにきた二人のネクタイの柄が違うことが気になりますが、そこは僕にはわからないです。


そしてもう一つがループ説

11話前半でチラチラ描かれたアと書かれた円盤が吹っ飛んでいく描写が、1話冒頭でアと描かれた円盤が落っこちてくる謎の描写とつながる

また、1話冒頭の「今度こそつながりを失わない」的なセリフは11話で失われたつながりを守るために過去へ戻った立場から出たセリフと取れる、という感じですね。

11話ではたくさんのアの円盤が主人公たちに加勢するように飛ぶシーンがありましたが、あの円盤一枚一枚がループした別世界線の主人公たちという風にも捉えられます。

根拠は

・円盤をめぐる様々な描写

・最後にタイトルとオープニングが流れることはここからまたスタートに戻ることを意味する(うる星やつら2ビューティフルドリーマーの手法)

ということで、ループを感じさせる要素が意図的なのは間違いないですね



その二つが物語のオチをめぐる視聴者によってなされる解釈ですが、そもそも作中で主人公たちに漏洩された「未来」もありました

「つながりたけいど〇〇」というサブタイトルの形を取ってうつされた未来はどれも夢の終わりや三人の関係の終わりを写したものでした。

そのあとマブが「可能性の一つ」と言いますからそれらは全て、未来にありうるパターンということなんでしょう。


というわけで考えられる主人公ら三人の道筋は三種類あるわけです。

・「漏洩された未来」のどれかの可能性に行き着き、いずれかのタイミングでつながった関係の終わりを迎える

・二人は死亡、悠も後追い自殺

・つながりを守るため過去へループ、その場合おそらく今までもずっとループしてきた


複雑なようでいて結局のところ、それらはそれぞれ、


・つながりが絶望的に終わる未来を生きる

・つながりの終わりを悲嘆して未来を捨てる

・つながりの終わりを受け入れず過去へ固執する

ということになると思います。

結局のところ全部「欲望→絶望」というルートに対しての定型パターンにすぎないわけです。

どれが事実かとかはどうでもいい、と僕が最初に書いたことはつまりそういうことで、作品を通して示された人間関係とそこに発生する欲望の宿命の形相を示した結果、3パターンを見せる必要があっただけなのです。

死亡ルートとループルートは絶望を回避しようとした結果「はじまらずおわらず、つながれない者」になったと言えるでしょう。

これは(白)ケッピが絶望(黒ケッピ)を受け入れて、王子の姿になった(=成熟した肉体を手に入れた)のと対照的です。

絶望を受け入れなかったルートは永遠に中学生の、未発達な人間のままなのです。漏洩した未来では三人は体も成長して声も低くなっていたのに、三年後の川(死亡ルート)の三人にはほぼ変化が見られなかったのはそういうわけです。


ここまで人間関係の時限性と破滅性を描いた作品はそうそう無いと思います。すさまじい作品です。しかしそれでもそれを明るく希望を持つものとして描いている。

そこに我々は希望と絶望が並存したつながりの現実世界を見るわけです。


レオマブとかネクタイとか、あと芥川龍之介の河童との関連とか、まだわからんことや語りたいこといっぱいだけど、とりあえずこんなところで終わります。


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