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檜山バターン(@hiyanimation)のブログです。note(https://note.com/batahiya)では別の記事を載せていてそっちの方がちゃんとしてます。このはてなブログは知人に読まれることを想定していることが多いです。

詭弁の駅伝

まじめでない議論が続いている。

「表現の不自由展」の中止を支持する人びとの最初の主張は政府の見解と真逆の主張(慰安婦問題)を税金でサポートするな!ってところだったのに、旗色悪くなるや「天皇の写真を焼くな!」とか「最愛の人の写真を焼くのが表現の自由なのか?いや違うはずだ」みたいな話にすりかわってしまった。

つまり「サヨク的なものに反発する運動」という快楽のために中心をすりかえた。態度としてハナからまじめではないのだ。

 


またもう一つまじめでない点を指摘する。

天皇の写真を使用した作品を潰す、ということがどういう意味を持つか、誰でも考えればわかるはずだ。

しかしあえてそこを想像しないという技が使われている。


具体的に言おう。

天皇の写真を焼くな!というルールが作られたら、それは天皇への不敬を許さない、という不敬罪の復活になる。

だがその不敬罪の復活というポイントを無視して単なる一般論として天皇を語ることで、そこを死角にしている。

 


たとえばかくのごときだ

もう一度言います。やっていいこととやって悪いことがないのが表現の自由なんてことは、私はないと思う。どんな理由があろうとも最愛の人の写真を焼かれてそれでも表現の自由だなんてぬかしやがったら私は絶対に許さない。議論の余地はない。私は許さないと言っている。落語を例に取るのも不愉快。https://twitter.com/shiraku666/status/1182503337641439233?s=21

 

 

 

そもそも権利とは二重三重に重なった状態で運用されるものであるという原則を無視しているのが片腹痛い。

例)私は今病院を開いて医者になることは不可能だ。だがそれは私の職業選択の自由が制限されているからではなく、人間の生存権のために作られた免許制度の方が優先されるからだ。


表現の自由はなにをやってもいいのだ。それと重なる別な権利もあるから実際には何をやってもいいわけではないが、それはまた別のはなしである。マジでこういう本当に出来の悪い詭弁によって表現の自由を潰さないでくれ……

 


そして「太平洋戦争の中心」であり「かつての主権者」である昭和天皇の写真を利用したパフォーマンスは、肖像権とかの諸権利と重なるとしてもやはり許されるべきだろう。

市民竹田恒泰が「被害者である子孫が皇族で被害を訴える権利がないのを悪用している!」と喚いていたが、それは皇族に基本的人権を認めない現行制度が悪いだろ。

 

まあそう言って皇族が自由に政治や国民の活動についてモノが言えたら象徴ではなくなってしまうし国民主権が侵されるし……ということでとどのつまり天皇制がもつ矛盾は解消されない。それでも天皇制は必要だと言うなら、皇族にモノを言う権利など無いことは当然だと言うか天皇主権に憲法を改正しろと言わなければならない。(俺はどっちとも思わないので天皇制反対である)

 

 

 

話を戻す、もう一つ重要なことは崇敬を愛にすり替えていることだ。

立川志らくがこんなにキレているのは愛ではなくて天皇への崇拝だろう。(もしくはそういうポーズを取ることで得られる政府へのおべっか)

なのに崇拝ではなく「最愛」と表現した。


戦前から変わらない伝統あるすり替えの手法である。

国家を家族、天皇をおおきな父親とみなす天皇観によってたくさんのことが歪められた歴史がある。

出来の悪い二番煎じだ。

 


歴史は繰り返す一度目は悲劇、二度目は喜劇として、とマルクスが言った通り、

先の大戦のときの威風堂々たる天皇崇拝イデオロギーとちがって、しょうもない小技で論理をすり替えていくところはまさに小喜劇だが、別に面白くもないし、そんな小技の行き着く先は結局同じ悲劇であろう。