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檜山バターン(@hiyanimation)のブログです。note(https://note.com/batahiya)では別の記事を載せていてそっちの方がちゃんとしてます。このはてなブログは知人に読まれることを想定していることが多いです。

「プロメア」における差別描写について

TRIGGER制作、今石洋之監督、中島かずき脚本のオリジナルアニメ映画「プロメア」を見てきました。

本作はグレンラガン以来鉄板の熱血アニメなのですが、差別を扱ったシークエンスがあり、それについて思うところがあったので書きます。作品全体への評はここではしません。

 

ネタバレには少し配慮してますが、わりとネタバレあります。

 

〜未見の人のためのあらすじ〜

30年前に起きた天変地異以降、人間が一定の割合で突然変異して、生きた炎を使える存在「バーニッシュ」になるようになった世界。

バーニッシュは政府によって弾圧の対象となってきた。

それに反発して生きた炎を使って“放火”を行う過激バーニッシュ組織「マッドバーニッシュ」と、政府のもとでそれを消火し人命を救助する民間組織「バーニングレスキュー」の戦いが行われてきた。

あらすじ終わり

 

この世界においてバーニッシュはそれだけで一般市民から恐怖され、バーニッシュであるというだけで差別の対象になっている。

 

※この「差別」というテーマは本作にとってあまり大きくない扱いなので作品の本質ではないだろうことは一応書いておきます。

 

バーニッシュ差別が描かれるのは物語前半の、主人公たちバーニングレスキューがピザ屋でピザを食うシーンだ。(一回見ただけの覚え書きなので仔細が色々違うと思う)

 

仕事を終えて勲章をもらった主人公たちがピザ屋で美味いピザを爆食いしている。馴染みと思しき店主に「いい焼き加減してる」と主人公が褒めると、店主がピザ釜の横にいるひ弱そうな褐色の青年を指して「あいつがいい腕しているのさ」的な返しをする。

そしていくつかバーニングレスキュー同士の会話を挟んだあと

警察兼軍隊組織の一隊が特殊車両でピザ屋に乗り込んできて、さっきの青年に銃を向ける。

恐怖からか青年はバーニッシュの火を出してしまったところを凍結弾で拘束される。それを止めよう店主が懇願する。しかしバーニッシュだと知っていたのに届け出なかった「バーニッシュ隠匿罪」とかでもろとも逮捕されてしまう。

主人公たちはテロリストでない市民まで逮捕する権利は無いとくってかかるが、警察の隊長ヴァルカンに「テロリストかどうかは俺が決めることだ」

と言われて飛んでいってしまう。

 

さて、警察兼軍事組織が去ったあとのピザ屋では、ピザ屋にいた複数の市民が「バーニッシュが作ったピザだったのかよ!」とか言ってピザを道に投げ捨てる。

それに対して主人公ガロは行動を起こそうとするが、同僚のレミーに「俺たちに止める権限(権利かも)は無い」と諌められ、同僚でヤマト真田ポジションのルチアも「見てて気分悪いけどねー」みたいなことを言うだけで静観するのみ。

結局主人公はバイクに乗ってどこかへ行く。その後のシーンで「自分の頭を冷やしに行った」ということがわかる。

 

長くなったがここまでの流れは実際の映画では10分も無いと思う。

しかし大いに問題があると私は感じた。

まず一番は「俺たちに権限(権利)は無い」というセリフだろう。どういう意図なのか明確にはわからないが、

①自分たち民間組織に市民を逮捕する権限はない

②自分で買った飯を棄てて怒りを吐露する市民は何の法も犯していないので止めさせる権利は誰にも無い

表現の自由なのでヘイトを行うのも自由だ

 

といったところだろう。

しかし「差別的言動を行う一般市民に『止めろ』と言う権利」はあるはずだ。

主人公が起こそうとした行動が逮捕だったり殴って止めようとすることなら、レミーのセリフは(どういう意図にせよ)筋が通るが、一回見た感覚としては主人公は声を出そうとしただけだったように見えた。

ならば堂々と差別への反対を宣言すれば良かったはずだ。

 

行動を取りやめるところは、自分には群衆に立ち向かう勇気は無い……といった葛藤などもない。

「権限が無い」の一言で差別への傍観が肯定されてしまったように見える。

その後のシーンで主人公は「頭を冷やしに」凍てついた湖に行き、追いかけてやってきたアイナと会話する。

しかしそこで話される内容は「恩義があるクレイ・フォーサイトのためにも軽挙妄動慎まなければいけない」ということ。それにたいしてアイナが過去に姉に引け目を感じていたことを打ち明ける。差別への怒りというさっきの感情はどこへやら、なんと二人はしょうもないメロドラマを演じる(本論とは関係ないけどこのシーンマジで要らなかった)。

 

結局のところ、主人公は目の前で行われた差別に対して直情的に反発を覚えるだけで、結局傍観して、差別について深く考えるでもなく、ただ責任論を利用して自己弁護するだけで終わったのだと私は理解した。

その後、物語が進むと、主人公は「バーニッシュも飯を食うのか」と軽口を叩いたことをバーニッシュに怒られて反省したり、マッドバーニッシュがテロを起こす理由があることを知り、バーニッシュへの理解を深めたりするが、最後まで一般市民の差別について深く考えたり、行動を起こしたりする描写は無い。

 

さて、これがリアリズムあふれる小市民的生活を描いた映画ならこういう描写はあっても良いと思うが、

主人公は並外れた熱血正義漢だ。地球の危機に対してすら「俺が消す!」と豪語して、本当にやってのけるような人間である。

そんな人間なのに体面を気にして差別を傍観するのか…というのは私の中ではひどくギャップがあった。

せめて差別を行う市民に対して一言言って欲しかった。

70年代的な熱血バカ主人公は差別に対してなすすべが無い、という決定的な敗北感があった。

 

 

翻って見ると、軍兼警察組織の不当逮捕に反発するバーニングレスキューという構図も欺瞞を感じる。

一般市民によるバーニッシュへの差別に慣れているなら、バーニッシュに対する不当逮捕にも慣れているはずだ。実際そのあとのシーンで無辜のバーニッシュがたくさん収容されていることも描写される。

ならば彼らの逮捕への反発も、全てわかったうえで通らないことが見えた上での自己を正当化するための演技にすぎなかった、ように見えてしまう。特にそのあとの差別への諦念ぶりが拍車をかける。

 

この一連のシーンを見て、私は「製作者にとって差別をおはなしを面白くするための小道具でしかないんだ」と思った

尺の都合とか色々理由はあるのかもしれないが、こんな雑な描き方をするなら差別というものをそもそも出さなくて良かったと思う。

 

突然変異した人間への差別と言うと現代ではあまり馴染み深くないが、ハンセン病患者への差別がある。国によって強制収容されて人権を奪われたことなど本作でのバーニッシュへの弾圧と結構似ている。

差別的政策が終わりハンセン病が早期に治る病気になった今でも、かつて強制収容された人々が後遺症に苦しみながら施設で暮らす人々がいる。

そうした方々にこの作品を見せたら少なくとも良い気分にはならないだろうと思った。

 

いくら熱血でも、いくらキレキレの作画で描かれても、いくら地球を救うヒーローでも、一般市民の差別には傍観決め込んでしまうキャラを、カッコいいとは思えなかったのだ。少なくとも俺は。