基点の記憶
きょう何ヶ月かぶりに「基点の記憶」を思い出した。
小学6年生の五月。中休みのはじめのこと。
自分は教室の窓際で一番上の階の六年生の教室からまだ児童のいない中庭を見下ろしていた。
中庭には鯉の住む池があって、小4のときには友達とよく遊んで池に落ちたこともあった。小5の頃は鯉に粘土を食わせたりした。色々アホなことをやった記憶を鮮明に思い出して笑う。小4のころ、もう自分は四年生になったのかと思いながら成長して自由度の増した生活を謳歌していた。
そしてふと気づく。あんなに印象深かった小学四年の思い出も2年前、つい最近の気持ちでいた5年生の思い出も、1年も前じゃないか!(11歳の自分にとって1年は大きな時間の単位だった)
楽しかった「いま」も気づけば遠いものになっている。経験は全て過去の記憶になって、ふりかえるだけのものになってしまう。ということは、気づいたときには中学生、高校生、大学生、社会人……という風に気づけば途方もない時間が経っていて、気づけば死ぬ直前になっていて、もう何も経験できない状態になる。
それが人生というものじゃないか。そう悟ったのだ。
人生とはそんな虚しいものなのかと思ったとき、そうだ、今度自分がいくつになってしまったと思うときには、今のこの、小学六年生のこの中休みの記憶を思い出そうと思った。
「記憶の基点となる記憶」があれば記憶がただの過去ではなく、地続きで繋がっているものだとせめて感じられるはずだと考えたのだ。(無論この説明は現在の自分によって整理されたものである)
自分は外の景色を見回した。
青い空にふわふわした白い雲が浮かぶ晴れた空で、窓から日差しが差し込んでいる。奥には家並みが見え、中庭には梅の木と緑色の池があって、古いモルタルの校舎と、ゴムチップで色のついた中庭が見える。自分のすぐ横には学級文庫の棚があって色あせた本が並んでいる——。
実際に私は何度もこの記憶を思い出してきた。中学生のとき、高校生のとき、大学生のとき。どういうシチュエーションで思い出したかの方はあまり覚えていない。
だが中学生のときには、「あとで思い出そうとおもってほんとに思い出せることってあるんだな」と自分で驚いた記憶がある。
そんなんだったから、今思い出す記憶はそれなりに、上書きされたものになっているだろう。他の過去の記憶より思い出す機会が多いので、むしろ他の記憶よりも上書きの度合いが高いかもしれない。
思い出すことで基点すら上書きされてしまうなら、結局人間は過去との連続性を確実には持ち続けられない。不条理を感じるが、そうでないと今を生きることに集中できないのだろう。人間は一個体としての実存より社会の構成要素として最適化されている存在だ。
だから人間が歳を重ねて生きるライフステップも、人類の歴史が進歩していくことも、あくまで仮定的な連続性、そう見えることもありますというだけの物語にすぎない。それらには社会的な存在意義はあっても個人にはない。
いままた10年前の記憶を思い出したのはニーチェの「この人を見よ」を読んだからだろう。
19世紀末の自伝パートと、未来の人類に向けて書かれた思想の解説が混ざり合い、叙情性をもって伝わってきて、自分と過去の自分とニーチェを結ぶ一つの線が見える気がする。
もちろんそれも仮想の連続性にすぎない。自分が思い出せる自分の記憶は全て不正確な幻想にすぎないし、訳書を読んで伝わるニーチェ像も幻想にすぎない。だが今の自分の思考に浮かぶ幻想の連続性は私の基盤をなす世界を作るものなので、それを基点に生きるべきなのではないかと思う。
今思えば記憶するときにもっと教室の中まで眺めるべきだったと思う。人のいない小学校の中庭の風景は死ぬ前に見る光景にしては悪くはないが、すこし寂しい感じがする。